夕星の歌


定期審査のあった土の曜日の夜。
調べものをして時間がすっかり遅くなってしまい、
大急ぎで入浴を済ませて洗い髪を乾かしていると、
アンジェリークが枕替わりのクッションを抱えてやって来た。

ライバルと休戦協定を結んだ覚えはないのだけれど、
どちらかの部屋に「お泊まり」までして夜通しおしゃべりするのは
ロザリアにとっても悪くないものになってしまっていた。
一つのベッドに潜り額をくっつけてひそひそ話す、なんて事は
箱入りの令嬢にとってはここに来て初めて知った愉しみ。
もちろん翌日どなたとも逢う約束をしていない時に限るし、
今日の様に大陸に視察に行った後などは
どちらも一晩中起きている事なんてできないのだけれど。

けれど今夜の「お泊まり」は決して楽しいものではなさそうだ。
アンジェリークはロザリアの顔を見るなりしゃくりあげた。
びっくりして一瞬理由を問いただすのも忘れ、
ロザリアは内心(泣きたいのはこちらの方なのに)と思う。

今日の定期審査は守護聖による投票形式だった。
4対3で勝利したのはアンジェリーク。
大陸の育成状況はロザリアがリードしていたが、僅かの違いしかない。
アンジェリークの育成するエリューシオンの発展は、
試験半ばに来て目覚ましい伸びを見せた。
もういつ逆転されてもおかしくはない状況にある。
投票でロザリアに勝つのも今回で2度目。
それでも、審査後に視察に行ったロザリアへ
愛情のこもった感謝の言葉を捧げる自領の大神官に、
ロザリアはすまない思いで一杯だった。

それなのに。
「…どうしたっていうの?」
などと言って悲し気にむせび泣くライバルの背中を
撫でてやったりしている。
体は火照っているのにパジャマがひんやりしているのに気付き、
ロザリアはアンジェリークを自分のベッドに促した。
調べものなりでついつい遅く迄床に入らない自分と違って、
本当ならとっくに眠っている時間だろうに、
一体何があったというのだろう。
サイドボードのランプ以外の灯りを落とし、
並んでベッドに腰を降ろす。
しばらくしてアンジェリークは泣き腫らした顔を上げ
「ごめんね。」
とつぶやいた。

アンジェリークに自分のブランケットを肩に掛けてやると、
ころんと横たわる。
ロザリアも隣にそっと滑り込んだ。
アンジェリークがぽつりぽつり話し始めた。
「…私ねえ…」
力のない声。
「リュミエール様の事、振っちゃったの。」
「…」
ロザリアは声を出さないように唇を引き結んだ。
「今日審査だったからお会いしたでしょう。
 なんかあの方見てたら私、泣きたくなっちゃってさ。
 ずっと我慢してたんだけど…」
「そ、そう…」
「全然いつも通りにこにこしてらっしゃったけど、顔色悪そうで、
 傷つけてしまったんだなあって思ったら、…」
「後悔したの?」
「…してないわ。」
ふうー、と息をつく音。
「私、好きな人いるし…」
聞きながらロザリアはぎゅっとまぶたを閉じた。
「ほんとに好きな人にじゃないと、捨てられないよね。
 試験とか、お家のこととか…」
同意を求められているのがわかっても、
ロザリアは応えられなかった。
「…振っちゃったのに、リュミエール様、
 ずっと力を贈って下さってて、
 執務室に依頼に行っても嫌な顔ひとつなさらなくて、
 投票もして下さって、」
アンジェリークを愛しておられるのだ。自分を惜しまず。
「なんか、恋って凄いよね。」
「…そうみたいね。」
ロザリアはそう言うと、ゆっくり背を向けた。

「…あの方もそういうタイプじゃない?」
知らん振りをしたが、アンジェリークは続けた。
背中から声の響きが伝わる。
「ロザリアはどうするの?」
「何よ…」
聞かないで。
「ルヴァ様。」
言われたくない名前。
「…ごめんね。」

応えないロザリアの背に、
アンジェリークは後ろから抱き着いた。
そしていきなり、布団を跳ね上げて体を起こすと
「私もう少ししたら好きな方に告白してみる!」
と唐突に宣言した。
「私も振られちゃうかもしんないけどさ。」
「振られなかったらどうするの?」
ロザリアも起き上がり、アンジェリークに向き直った。
どうせ応えはわかっているのだけれど。
「試験やめて、くっついちゃう。」
「勝手にしなさいよ。」
「勝手だもん。」
なんだか急に元気になっている。
「…あんたってほんと、おばかさんだわ。」
「えへへ。」
ぱたんとまた横になる。
ロザリアも倣って布団を掛け直し、目を閉じた。

惜しみ無く相手に与え、相手から奪ってしまうのが、恋なら
 わたくしは恋などしていないのかしら
と、ロザリアは思う。


翌朝。日の曜日
「夕べはありがとう。頑張ろうね、ロザリア。」
と言うと、案外すっきりした顔でアンジェリークは帰って行った。
頑張ろうと言われても、なんだか気力が湧いてこない。
出かける気にもなれず、
ヴァイオリンの指慣らしなぞしてぼんやり過ごしていると、
守護聖が訪ねて来た。
逢えばどうしても嬉しくなってしまう。地の守護聖、ルヴァ。

「お邪魔だったでしょうか?」
「…練習していただけですわ。お入りになってくださいまし。」
「御気分が優れない様ですね。」
「…夕べ遅く迄アンジェとおしゃべりしてましたから…」
「あ~、それじゃゆっくり休んでらっしゃい。」
「お帰りになりますの?」
寂し気になってしまう声。
ルヴァは慌てて
「では、ここで少しお話してもいいですか?」
と尋ねると、ロザリアはほっとした顔になった。
「お茶をお持ちしますわ。」
テーブルに広げた楽譜やディスクをまとめて端に寄せ、
今ではカップボードに常備するようになってしまっていた緑茶を入れる。
嬉しそうに受け取るルヴァに、ロザリアはほっとする。

楽譜が気になっているらしいのに気付き、
「この前、家から送ってくれたんですのよ。」
と言って広げて見せる。
ロザリアが贔屓にしているオペラ歌手のディスクと、
いくつかの楽曲集。
まだ一つの星にしか人が住まず、
星間旅行が行われるようになる遥かに昔の音楽を、
ロザリアは好んで聴いたり弾いたりしていた。

「ワグナーがお好きだとおっしゃってましたねえ。」
「…はい。」
「あ~、これは確かジュリアスが時々かけている曲ですね。」
楽譜の一つを見遣りながら、ルヴァが言ったので、
そう言えばワグナーの豪華でスペクタルな音楽について、
筆頭守護聖と盛り上がってしまった事があるのを
ロザリアは思い出した。
「ニーベルングの指輪」が好きだと言っていた。
尤もジュリアスは忙しくて全幕通して聴くことができないと
ぼやいていたが。
戦乙女がロザリアに似ていると言われて
、好きな役だったので嬉しかったが、
ロザリアの好きな「タンホイザー」は苦手と言われ、
少しだけ落胆したことがあった。
 ルヴァだったらどう言うだろう?
とロザリアはふと思った。

もう一冊の楽譜を捲り、大好きな箇所を開いた。
「この歌はご存じですか?」
そう言ってヴァイオリンを調音し、一節だけ弾いてみる。
「初めて聴きました。よかったら続きをお願いできますか?」
オペラ「タンホイザー」の脇役の歌う名シーン、
主人公のために命を懸けるヒロインを宵の明星に託して、見送る片恋。
あまり長い曲ではないが、しみじみとした余韻が後を引く。

しばらくして
「美しいですね。
 悲しい感じがしますが、
 どこか強くて明るいものを秘めている気もします。」
とルヴァが言った。
ロザリアから楽譜を受け取り、原詩を難無く読むと
「ああ、やっぱりそういう歌なんですね。」
と言って、うんうんと頷いた。
「私も好きですねえ。いい歌です。」
遠い目で微笑する。
『私も』と言われたことが、
わけもなくロザリアの神経に触った。
「わたくしは嫌いですわ。」
どうしてそんなことを言うのか自分でもわからない。
「いいえ、好きなのですけれど…」
言い直そうとして、言葉を探す。

「あの~、貴女、疲れましたか?」
優しい優しい声。
「…こうしていることに。」
言われて思わず目を上げ、ルヴァの優しい顔を見ると、
ロザリアは唇を噛んだ。
 疲れてなどいない
「もう、おいとましましょうね。」
 立ち上がらないで。
「あ~、気にする事ありませんよ。いいんです、いいんですよ。」
いたわる声に、ロザリアは何も返せない。
挨拶すらできずに、ルヴァの後ろ姿を見送った。

ロザリアはその日、楽譜も楽器も棚の奥深く仕舞い込んだ。

女王試験に必要な資料以外、何も目にしたくなかった。
王立研究院と聖殿の守護聖執務室に熱心に通った。
フェリシアにも日を置かず視察に赴き、大神官に望みを聞いた。
自分を嫌う守護聖達にどんなむげな態度を取られても気にならず、
自分を心配する守護聖達には愛想良い仮面を付けて応じ、
試験に集中しようとすればする程、自分が空虚になるのを感じて、
ロザリアは眠ることができなくなっていった。

皮肉にも、アンジェリークが自分を追い越す兆しが徐々に現れる。
ロザリアは耐えかねた夜に、寮を抜け出した。

宵の明星の光が目に痛く、暗い森の湖に入って行く。
靴を脱いで浅瀬に足を浸し、ゆっくりと昇る月の元で、心を鎮める。
 わたくしは大丈夫
とひとりごちて寮に戻り、また試験に力を注ぐのをくり返す。

無理が祟って倒れてしまった時は、
心配するアンジェリークに心にもないきつい言葉を掛けてしまった。
薬を飲んで無理矢理眠っていた時に、
ルヴァが寄り添ってくれている気配を感じたが、
夢を見ているとしか、思わなかった。
そう、夢と。

夢や予知というものは、
本人の潜在的な願望を現しているに過ぎない、
そう思ってロザリアは自己嫌悪する。
女王になりたいと思う気持ちは日々強まり、
比例して同じだけルヴァを思う。
よくないとわかっていても、部屋を出て夜の森に足が向く。
 わたくしは与えることも奪うこともできないのに、
 求めているんだわ
月の光を受けて日中よりも静かな光を放つ滝の前で、
ぼんやりと思った。

衣擦れの音がする。
周りの景色に溶け込みそうな暗緑色の衣装。
ターバンを着けた懐かしい顔。
「奇遇ですねえ。」
優しい優しい声。

「お逢いしたかった…」
ロザリアの声は震えている。そして
「…私も、逢いたかったんですよ。」
嬉しい、返答。

反射的に走り寄り、
ためらわず腕を伸ばしてルヴァをかき抱いた。
「ロ、ロザリア?」
とまどう声に
「申し訳ありません」
とくり返し、けれどもその手を放さなかった。
「どうして謝りますか?」
ふわりと抱擁して返し、耳元でささやく声。
「私も貴女に逢いたかったのに。」

「わたくしは狡いことをしているからです。」
肩口に顔を埋め、ロザリアがささやき返す。
「謝らないといけないのは、私の方ではありませんかねえ。」
「どうして」
ロザリアは顔を上げた。
「ルヴァ様は何も悪い事をされてはいません。
 試験を降りもせず、逢いたいだなんて、
 わたくしが欲張りすぎなんです。」

アンジェリークだったら…
本当に好きな相手のために試験も家族も捨てられるだろう。
けれども自分にはそれができない、いや、そうしたくないのだ。
生家は女王や女王補佐官を多く輩出してきたが、
自分は女王となることしか夢見て来なかった。
女王候補であることを取ったらもう何もなくなってしまう自分。
「わたくしは、空っぽなんです。何も差し上げる物を持っていない。」
泣き出したいのを必死で堪えると、
「ああ、そんな風に思っていましたか。」
ロザリアはそっと頭を撫でられ、増々体を引き寄せられた。
「私は貴女からは色々なものを貰ってるし、
 色々なことを教わってるんですがねえ。」

ルヴァの言葉に困惑するロザリアに、柔らかい笑みが送られる。
「優しいのにそれを指摘されると困ってしまったり、
 女王になるのを目指す余り、倒れる迄頑張り過ぎたり、
 私みたいな男に、あの、逢いたいと言ってくれたり…
 あ~、そういう貴女を見ることができて、
 私はとても楽しくて、嬉しいんですよ。
 ね、十分頂いているでしょう?」
「わたくしは、何ひとつ差し上げてなんていませんわ。」
「ほら、そうやって強情を張るところも。」
「…」
ロザリアの言葉が詰り、困りきって怒ったような顔になる。
ルヴァは楽し気に笑ったかと思うと、今度は力強くロザリアを抱き締めた。
ロザリアも、うっとりとその背をかき抱いた。

「離れよ」
という叫びに引き離される迄抱擁は続いた。

ロザリアとルヴァの逢瀬はジュリアスの知るところとなり、
両人への信頼を裏切られたと、ジュリアスが二人を問い詰める。
二人が何を言っても厳格な筆頭守護聖は
「女王試験中に過ちを犯した」
と責め詰るのをやめない。

けれどもロザリアは、自分が少しも悔いていないことに気付く。
このままの道を行くことしか、もう選ばない。
候補失格の烙印を押されることに不思議と恐怖はなかった。
自分を随分わがままで愚かな女になったものだと思うけれど、
これが自分、ロザリア・デ・カタルヘナなのだとはっきり悟っていた。

ワグナーの歌曲が静かに胸の内に響く。
いつだったかルヴァが『貴女のことを見届けたい』
と言ってくれた事を思い出す。
 宵の明星に託して愛する女を見送る男の様に、
 自分も自分達を
 けれどそれは自分の目で、見届けよう
と、心の中で歌った。



[WithLuva]