法話


 70    60 智慧と慈悲 
 69    59 ()でガエル 
 68    58 愚痴の病 
 67    57 「いのちに合掌」 
 66    56 「やおよろず」という見方  
 65    55 善いことをする 
 64    54 自然の治癒 
 63    53 共生の社会を
 62    52 「幸せ」について 
 61 唱題のこころ   51 自己を知る 

50 災害列島に生きる 25 仏性を育てる
49 「非暴力」のちから 24 不殺生戒について
48 「冥福を祈る」とは  23 貧富の二極化現象に想う
47 物から心へ 22 「盲亀浮木」の譬え
46 日本のよさを見直す 21 「仏涅槃図」に想う
45 他者のために 20 望ましい生き方
44 心の安らぎを求めて 19 柔軟心ということ
43 「悟り」ということ 18 命を賭して信を貫く
42 懺悔とは? 17 怨みの連鎖を断つ
41 すべての衆生を救わん 16 社会のために
40 執われの心 15 智慧をまなぶ
39 すべてに価値あり 14 悲しみに打ち克って
38 「無限」の可能性 13 ことばは心を映す鏡
37 暗闇の復権 12 心の財(たから)第一なり
36 花祭に因んで 11 適応力を取り戻す
35 合掌のこころ 10 生かされて生きる
34 「人生は苦」か? 9 精進するということ
33 彼岸の修行 8 お祖師様へのご報恩
32 いじめを考える 7 いのちを伝える
31 江戸の商法を見直す 6 仏種を開花させる
30 企業人の志 5 地上に人が住めなくなる!
29 祈りの力 4 万物と共に生きる
28 慈悲の心で 3 お盆のいわれ
27 臨終の事を習ふ 2 「させていただく」という心
26 「立正安国」の教え 1 立教開宗とご法難


唱題のこころ                                 平成28年8月1日
 「南無妙法蓮華経」をお題目といい、日蓮宗では、お題目を唱えることが「正行」と言って最も大切な行とされます。
   日蓮上人の言葉
(ただ)南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、(これ)をみがくとは(いふ)なり        (『一生成仏抄』)

 それでは、お題目はどのような心で唱えればいいのでしょうか。単に呪文のように唱えるだけでいいという考え方もありますが、ここではその意味について考えたいと思います。
     ◇
 まず、「南無」とは、梵語「ナーモ」の音訳で「帰命」と訳し「命をかけて帰依します」という意味です。従って、「南無妙法蓮華経」とは、お釈迦様の真実の教えである「妙法蓮華経」(略して法華経)の教えに、心から従い実践します、という意味になります。
     ◇
 それでは、「妙法蓮華経」とは、どのような教えなのでしょうか。「妙法蓮華経」の原語は、梵語で「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」といい、サット=正しい、ダルマ=法、プンダリーカ=白蓮華、スートラ=経で、「白蓮華のような正しい教えの経典」となります。
訳者・鳩摩羅什は、正しい教えを「妙法」と訳します。妙とは、不可思議の意で、人間の智慧では計り知れない奥深いという意味です。
 次に、白蓮華ですが、「この泥があればこそ咲け蓮の花」(蕪村)とあるように、白蓮華は高原の清らかな水では成育しません。低地の泥水の中で、泥を栄養として育ちますが泥にまみれない清らかな花を咲かせます。
 悪もはびこる俗世(泥)の中に暮らしながら、それに染まることなく清らかに自由に生きるという人の理想的生き方を示します。これは菩薩様の生き方でもあります。
 「蓮華は水に生ずるも、還って水に著せず。菩薩は俗に在るも俗に拘へられず」
                                       (天台大師・智顗『澄心論』)
とあるのがそれです。
 つまり、「白蓮華のような正しい教え」とは、菩薩様の生き方をお手本としなさいということです。
 それでは、菩薩様の生き方(菩薩行)とはどのようなものかというと、
 「上求菩提・下化衆生」という言葉で表されます。
 目指すところはは菩提(悟り)を求め(=自利)、下に向かっては衆生(生きとし生けるもの)を教化する(=利他)ということです。
     ◇
 従って、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えるということは、
 「どうか私に仏様の智慧をお授けください。私はそれを悩む人に分け与え社会に役立ててまいります。」、
 と誓願することだと考えるのが良いと思います。
     ◇
 日蓮聖人は「一生成仏抄」に、「錆びた鏡も磨けば、清らかな鏡になるように、私たちの迷う心も日夜朝暮に磨けば悟りの明鏡になる。磨くとは何か。南無妙法蓮華経と唱えることが磨くということなのだ。」(枠中のことば)と示しています。
     ◇
 法華経を始めとして、お経とはその教えが尊いのだと思います。その教えを理解し実行する、つまり人の役に立つような生き方をする中で、その人の心も健康も整ってくる、これが宗教の救いということだと思います。
 ただやみくもにお題目を唱えればいいという次元から、少しでも法華経の精神を理解し、誰もが、その心構えを込めてお題目を唱え、その実践に努めるならば、立正安国の願いが達せられるのも夢ではないといえましょう。 

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智慧と慈悲                              平成28年3月10日
  「老齢は智慧の塊」と言います。
仏教のことば
大慈与一切衆生楽
大悲抜一切衆生苦

     【出典・大智度論】
 私たちは、年を取ると、筋力、視力、 聴力、精力…と、肉体的な力は、こと ごとく衰えます。年々、徐々に衰える ので、当人に自覚はあまりないもので すが、後期高齢者にもなると、その体 力は元気な盛りの頃の30㌫にまで落 ちてしまうということです。
  しかし、それとは逆に徐々に蓄えら れるものがあります。それが「智慧」 です。私たちは、生まれて物心がつい てから、誰もが少しでも自分を向上さ せたいという思いで一所懸命に生きま す。一日一日が新しい体験であり、学 びとなり、それらがすべて智慧として 蓄積されて行くのです。
         ◇
 人は人生を生きる中で、喜びや悲し み・苦しみ・怒り…と様々な体験をし ます。人生は苦、と言われる以上、暮 らしの中で次から次へと難題が湧いて くるのが当たり前。そして、それら一 つ一つに真剣に向き合い、解決してい く中で、人間性が育まれ、智慧が蓄え られるのです。
  いじめなどの問題も、相手側の立場 になって考えれば、その人の人生ばか りでなく、その家族の生活まで破壊し てしまうことにも思いが巡るはずであ り、また、災害などで肉親を亡くした 悲しみなども、同様な自分の体験に照 らせば、悲しみの深さも理解でき、ふ さわしい対処の仕方もおのずと出てく るものだと思います。
        ◇
 中国の思想家・孔子は、「先生、たっ た一語で、一生それを守っておれば間 違いのない人生が送れる、そういう言 葉がありますか。」という弟子の問い に対して、「それは『(じょ) 』ではなかろ うか。」と答えています。「恕」とは、「如 (なんじ)+心」で、相手の立場になっ て考える心、即ち、思いやりです。 孔子は、この後に「己の欲せざる所 は、人に施すこと(なか) れ。」(自分が望ま ないことは、人にも仕向けないように しなさい)と言っています。
  確かに、常に相手の立場に立って考 える生き方ができれば、人からの信頼 も得られるし、その人の幸せ感となっ て戻ってくると言えましょう。
 孔子と言う生き方の達人のことばだ けに、重みがある一言です。
         ◇
  仏教のことばに、「慈悲」があります。 慈は、衆生に楽を与える、悲は、苦 しみを抜く意で、「抜 苦与楽(ばっくよらく)」といわ れます。
 「仏・菩薩が衆生をあわれみ、いつく しむ心。」(広辞苑)で、特に仏・菩薩 の大事な役割となっています。
 特に、仏・菩薩の広大無辺な慈悲を 「大慈大悲」と言い、観世音菩薩の徳 を表すのに多く用います。
 「大慈は、一切衆生に楽を与え、大悲 は、一切衆生の苦を抜く。」(枠中の語) とあるのがそれです。
         ◇
 人の理想の生き方は、菩薩様のよう に生きること(菩薩行)と言われます。 菩薩様は、自分の修行に励んで仏の境 地に達することを目指し、同時に悩み 苦しむ衆生があれば、慈悲の心を以っ てそれを救うことを役割としていま す。
  私たちも、誰もが自己の向上を図る と共に、お互いの苦境には、それぞれ の智慧を以って手を差し伸べあいたい ものです。
 「慈悲あるものは怨みを得ず」(釈尊) とありますが、そのように実践するこ とは、人から恨まれることもなく、そ の人自身にも福をもたらすことになる のです。
         ◇
 「智慧と慈悲」とは、仏教の修行で獲 得すべき二大徳目といわれ、また、一 体のものとも思われます。 私たちは、智慧を蓄え、それを以っ て慈悲に繋げたい。特に高齢者として は、体力では若い人たちに及ばないな がら、子育てや貧困に苦しむ人々が増 えている現代社会で、智慧 と慈悲で貢献していきたい ものです。

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()でガエル                                平成27年11月1日
 
     釈尊のことば
知足の人は地上に
()すと(いえ)ども、
なお安楽なりとす 
      
(『仏遺教経(ぶつゆいぎょうきょう)』)
明日も変わりなくやって来るはずだった日常が突如崩壊する。これが災害です。その度に被災者は大変な苦しみを味わいます。
 9月の鬼怒川決壊による茨城県常総市の洪水災害、昨年の広島・安佐地区、一昨年の伊豆大島の土石流災害などがそれです。いずれもかつて無かったと言われる豪雨による大規模な災害で、地球温暖化に起因すると思われます。
 そして、これからもこのような異常気象が当たり前のようになってくると、たくさんの被災者が出て、私たち人類の文明の存立が危うくなってくるとさえ言えましょう。
     ◇
 地球の温暖化は、ある地域には、寒冷化をもたらすと言われます。つまり、温暖化すると、南極や北極の氷が大量に融けて海水の濃度が薄まり、海水の熱を蓄える働きが弱まる。すると、暖流の流れる地域の気象に影響するというわけです。
 中米のメキシコ湾からイギリス・北欧の方に流れる通称・メキシコ湾流と呼ばれる世界最大級の暖流がありますが、この暖流は、イギリスなどヨーロッパの高緯度地域を温暖な気候に保つのに重要な役割を果たしています。この暖流の温度が下がると、北欧・ヨーロッパ・イギリスなどは、大体日本の札幌より高緯度ですから、寒冷化・凍土化して人の住めないような土地になってしまうということです。〔ペンタゴン(米国防総省)レポート〕
     ◇
 また、温暖化は、海面上昇によって、土地を水没させたり、乾燥により砂漠化させたりして、人の住める範囲は限定されてしまいます。
 このように見ると、現在世界では戦争や民族紛争による難民が増えて混乱状態を招いていますが、これからはそれに加えて環境難民が急増し、世界はさらなる混乱状態に陥ることが予想されます。
     ◇
 もしかすると、文明の崩壊は、既に始まっているのかもしれません。
 「茹でガエル」という比喩をご存知でしょうか。
 カエルを熱湯に近付けると熱さを感じて逃げてしまいます。しかし、鍋の水の中にカエルを入れてガスをつけて沸かしていくと、カエルは温度の変化に気づかず、やがて気がついた時にはそのお湯から抜け出せなくなっていて、やがては茹であがって死んでしまう、という話です。
 近年、世界では、異常気象によると思われる災害が多発しています。
 今年に限っても、8月の台風13号では気圧が900ヘクトパスカルにまで下がり、風速58㍍の猛威で、台湾・中国では大暴風・大洪水による被害の他、巨大な竜巻が発生して、多くの物的・人的被害を出しています。5月には、インドに猛烈な熱波が襲い、死者数千人、ニューデリーでは道路が溶けたと言われます。その他、オーストラリアの大干ばつ、アメリカ・カリフォルニアの山火事の多発、大洪水・土石流・熱波・寒波など、記録的に猛烈なものが増えています。
     ◇
 それにもかかわらず、私たちは更なる快適さを求めて、物を大量に消費し続けています。
 先日の新聞に、宅配便の不在者への再配達についての記事がありました。
 それによると、「再配達には、延べ年間約1億8千万時間かかり、労働力に換算すると約9万人分になる。トラックの排ガスでは年42万トンの二酸化炭素が発生。これは、山手線の内側面積の2・5倍と同じ広さのスギ林が吸収する量に匹敵する。」とのことです。(朝日・H27・10・3)
 もう私たちは、鍋の中のカエルの様にかなり茹であがった状態にあるのかもしれません。
     ◇
 釈尊のことばに
 「知足の人は地上に臥すと雖ども、なお安楽なりとす。」(『仏遺教経』)
 足ることを知っている者は地べたに寝るような生活であっても幸せを感じている。
 とあります。豊かな物量に囲まれなくても、幸せに暮らせるということです。
 文明の崩壊とは、多くの災害が起き、世界は無政府状態となり、多くの人が苦しむ状況になることです。子や孫たちの時代がそうならないように私たちも意識を転換し、また、政治にもしっかりとした政策を採って欲しいものです。

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愚痴の病                            平成27年8月1日
 
      釈尊のことば
貪欲(とんよく)の病には骨相観(こっそうかん)を、瞋恚(しんに)の病には慈悲観を、愚痴(ぐち)の病には縁起観(えんぎかん)を教える。(涅槃経)
今年は台風の当たり年だそうで、5月という早い時期から日本に接近し、強風・集中豪雨によって、建物の倒壊、土砂崩れ、河川の氾濫などの災害が起きています。近年は、気象が激甚化しており、特に、局地的な豪雨による被害の拡大が懸念されます。
 このように書くと、日本は水資源が有り余っているように思われますが、現実はまったく違っています。
        ◇
 そもそも地球は水の惑星といわれますが、実はその98%が海水で、淡水は2%に過ぎず、しかもその大部分は南極や北極の氷山などで、私たち陸上生物が利用できる水は全体の0.01%にも満たないのです。地球上の水すべてが風呂桶1杯の水だったとすると、私たちが使える水はわずかに1滴で、この1滴の水をすべての陸上生物が分かち合って生きているのです。
        ◇
 日本の水事情は、一見恵まれているように見えます。確かに、世界平均の年間降水量が973㎜に対し、日本のそれは1、800㎜で約2倍です。しかし、国土が狭いので、1人あたりの年間降水量に換算すると、格段に少なくなり、世界平均の4分の1にも満たず、世界で82位となってしまいます。
 それにもかかわらず、清潔志向の私たち日本人は、髪を良く洗い、真っ白なシャツを着て、水の消費では世界で第4位の位置を占めているのです。なぜそれが可能かと言えば、それは、私たちが《仮想水》という形で水を大量に輸入しているからです。
 1㎏のトウモロコシを生産するには、1、800ℓの水が必要です。また、牛はこうした穀物を大量に食べて育つため、牛肉1㎏を生産するには、その約2万倍もの水が必要となります。ということは、日本は海外から大量に食料を輸入していますが、それは、形を変えて水を輸入していることと考えることができます。それが仮想水で、その量は、約800億㎥であり、日本国内で使用される年間の水の使用量とほゞ同量になります。
 日本人は海外の水に依存して生きているといえるのです。
        ◇
 話は変わって、日本の医療を見ると、すべての国民が公的医療保険制度でカバーされており、保険証があれば、どの医療機関にもかかれ、たいていの医療が保険によって賄われます。人工透析にしても、患者は30万人と言われますが、患者にとって保険はまさに命綱であり、なくてはならないものとなっています。
 他国を見ると、フランスでは、かかった医療機関の区分によっては医療費が一定額を超えると自己負担する必要があったり、またドイツでは、大学病院での受療には紹介が必要で、患者が必ずしも自由に医療サービスを選べるわけではありません。スウェーデンでは、医療費は無料に近いが、1週間以内に医師に診てもらえるようにすることが、医療政策の目標になっているとのことです。アメリカでは、昨年まで医療保険制度が整備されておらず、数千万人が無保険者で経済的理由で、病気になっても医療に掛かれませんでした。
 このように見ると、日本の国民皆保険制度がいかに優れた制度であるかが分かると思います。
私たちは、水の使用についても、医療にしても、空気のように当たり前で、その「ありがたみ」を自覚していないように思われます。
         ◇
 「涅槃経」に、三毒の病の治療法として 

 「貪欲の病には骨相観を、瞋恚の病には慈悲観を、愚痴の病に縁起観を教える。」
(意訳)愛欲に溺れている者には、相手がどんなに魅力的に見えても、所詮、骨でしかないと気付かせる。怒る者には、慈悲の心の大切さを説く。無明により誤った見方しかできない者には、縁起に基づく考え方を教える。
とあります。
 仏教では、3つの根本的な煩悩(=毒)として、貪・瞋・痴(とん・じん・ち)を挙げ、三毒と言います。「貪」は貪欲で、欲深く物をほしがる、「瞋」は瞋恚で、怒ること、「痴」は愚痴で、因果の道理に暗く実体のないものを真実のように思いこむこと、です。
 この三毒は、人間の諸悪・苦しみの根源とされ、これを克服することが仏道修行であるとされます。
        ◇
 2025年には世界人口の2/3が水不足になると予測されており、その原因の大部分は、先進国の水の大量消費です。やがて、そのつけは私たちの身にも及ぶでしょう。
 また、皆保険で医療は安くて当たり前と錯覚し、感謝の念も薄れてしまえば、この制度も崩壊します。
 縁起の考え方を理解し、「愚痴の病」を克服したいものです。 

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「いのちに合掌」                             平成27年3月10日
 イースター島という島があります。モアイという巨石の像が並び立つことで有名です。
この島は、太平洋の、南米大陸から3千7百㎞も離れたところにある絶海の孤島で、4~5世紀の頃は、巨大椰子が沢山生い茂る緑豊かな島だったといわれます。
    日蓮聖人の言葉
近年より近日に至るまで、天変・地夭(ちよう)飢饉(ききん)疫癘(えきれい)(あまね)く天下に満ち、広く地上に(はびこる)る。
          (『立正安国論
 そこへ、戦いで追われたポリネシア人が移住します。ポリネシア人の社会は部族社会で、権力者の酋長(しゅうちょう)が亡くなると神格化して像として(まつ)る、これがモアイ像です。
 代を重ねる毎に有力者が分家して部族の数が増え、島の到る所に、それぞれの部族の祭壇が作られ、1千体を超すモアイ像が造られました。大きさは高さ3m、重量20トンもあり、最大級のものは高さ20m、重量は90トンにも達します。
 これらの巨石像を運ぶ資材にするため大量の木が切り倒され、森が失われ、森を失った島からは肥えた土が海に流れ出し、土地は痩せ衰えていきました。 海鳥以外の鳥類もとりすぎて絶滅し、人々は餓死するものが続出しましたが、木がないためカヌーをつくって島から逃げ出すこともできず、島内で争いあい自滅したと言われます。
 1万人以上とも言われた人口も、西洋の船に発見されたのちに天然痘が猛威を振るったこともあり、19世紀後半には、わずかに100人余りに減ってしまい、原始人さながらの生活だったそうです。
        ◇
 話は変わって、日蓮宗は平成33年に、「日蓮聖人ご降誕八百年」の記念の年を迎えます。そして、それに向けての活動として「いのちに合掌」というスローガンを掲げています。
 言うまでもなく、私たちは自分一人では生きていくことはできません。人と人とが支え合い、動物・植物の命をいただき、その動植物もすべてお互いに恵みを施し合って共存しています。更には、生物のみならず、地球のあらゆる資源の恩恵を受けて、私たちの生活は成り立っているのです。
 私たちは普段そのようなことは自覚することなく生活していますが、改めてそのことに思いを馳せて、あらゆる命・資源を尊び感謝しようというのが、このスローガンの意味するところです。
        ◇
 現在、私たちの生活や、世界の現状を見ると、いかに資源を大量に浪費しているかが分かります。
 石油については、前にも書きましたが、現在、世界全体では、只の一日で、ドラム缶(200㍑入り)で4千3百万本分の石油を消費しているとのことです。これは日本列島に(稚内から鹿児島まで)並べると11列にもなる膨大な量です。そして、その結果、年間60億トンもの二酸化炭素を大気中に放出しています。
 森林の破壊も深刻です。毎年日本の国土面積の半分に当たる森林が消失し、その半分は草も生えない砂漠と化しています。世界最大の原生林アマゾンもあと50年で失われると言われ、フィリピン・インドネシアの熱帯林はほとんど伐採・焼却されて消失寸前の状態です。その主な原因は、私たち先進国による消費です。木材や新聞・書籍などの紙としての消費の他、森林を焼き払って農園とし、ヤシ油や果物を作って換金するのです。
 そして、その焼却による二酸化炭素の排出量は、泥炭層の土地が引火により燻ぶり続けることもあって、世界中の車が排出する量に匹敵するとのことです。
        ◇
こ のような人間の活動によって引き起される温暖化が、世界中で、旱魃(かんばつ)・山火事・台風などの気象災害・洪水・氷河氷山の融解・海面上昇・飲用水の欠乏・旱魃と強風による土壌喪失、飢饉、等々を招いています。また、エボラ出血熱の蔓延(まんえん)・原子力廃棄物の蓄積・戦乱による大量破壊など、地球は問題山積です。
 日蓮聖人は、『立正安国論』において、
 近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘、遍く天下に満ち、広く地上に迸る(枠中の語)
と書かれ、民衆の苦しみに思いを馳せておられますが、世界の現状はこの鎌倉時代の状況をも(しの)(ひど)さといえます。
        ◇
 これから、途上国の人々の生活水準が上がれば、問題はさらに悪化します。70億人もの人々が先進国並みになることに、地球の環境は耐えられません。
 現代の私たちも、地球という孤立した島に住んでいます。地球環境を台無しにしてしまっても、イースター島の人々と同様に、別の星に移り住むことはできないのです。
 この問題の解決法について、新聞に
「先進国の人々が資源やエネルギーの消費を落とす一方で、途上国の人々は消費水準を上げ、両方をバランスさせることだ。そうすれば、テロや難民の問題もおさまっていくだろう。」(朝日、H24・1・2「文明崩壊への警告」
とありました。
 確かにそれ以外の道はないように思われます 

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「やおよろず」という見方                      平成26年11月1日
  「イスラム国」なる国家を自称する集団が、イラク・シリアなどで戦いを展開しています。
     仏教のことば
 一切衆生(いっさいしゅじょう)  悉有仏性(しつうぶっしょう)
       (『大般涅槃経』)

 イスラム教スンニ派の集団で、武力を以ってイスラム世界のスンニ派への統一を図ろうということのようですが、目的のためには残虐な手段をも厭わない非人道的なやり方に、国際社会は世界の安全をも脅かすものとして苦慮しています。
       ◇
 世界の各地で起きている争いごとを見ると、その大半は宗教が絡んでいるように思われます。そもそも自分の信じる教えを、他に強要しようという考え方はいかがなものでしょうか。
 宗教においては、自分の所属する宗教・宗派を絶対的なものと考えがちです。特に、イスラム教やキリスト教など、「一神教」の教えでは、神は唯一・絶対のものとされます。それを個人的に信じることには、何の問題もありませんが、その教えで一国をあるいは他国をも統一しようと考える者が出てくると悲劇は起こります。かつて、キリスト教の十字軍が、何度にもわたってイスラム教圏に侵攻し、大量殺戮を繰り返したことなど、歴史的にも多数の例が見られます。
 客観的に考えると、複数の宗教が自身を唯一・絶対とした場合、一つが正しければ他は必ず間違いとなるはずです。そう考えると、どの宗教も絶対と言えるものはなく、それぞれが長所も短所もあると考える方が自然ではないでしょうか。私たちは自分の信じる宗教を拠点として、他の宗教の長所も参考にしてゆくというあり方が良いのではないかと思います。
       ◇
 釈尊の弟子・舎利弗の叔父に「長爪」と呼ばれる人がいました。彼は、根本経典をすべて読み尽くすまでは爪を切るまいと誓いを立てて長い爪をしていたそうです。
 その彼が、多くの知識を身に着けて、手当たり次第に議論を仕掛けては、その相手を論破し、その勢いを以て釈尊に議論を持ち掛けます。そして、開口一番、「私はすべての教説を認めないと主張する」と嘯きました。
 その時、釈尊は即座に「では『すべてを認めない』というその見解も認めないのですか」と切り返します。しどろもどろになる長爪を、釈尊は丁寧に諭してゆきます。すべてを認めないという主張もあり、すべてを認めるという主張もあり、部分的に認めるという主張もある。いずれにしても、世の中には様々な主張がある。そういうことを考えずに、自分の説だけに固執するなら、必ず対立して争論となり、余計な苦しみを増すだけでまったく無益である、と。
         ◇
ところで、私たち日本人は宗教に関しては、無節操であると言われます。確かに、クリスマスにはケーキを食べ、七五三には神社にお参りし、葬式・法事は寺で、結婚式は神道、最近はキリスト教式が増えています。
 しかし、これは見方を変えれば日本人の寛容性を表わすともいえるのではないでしょうか。
日本には昔から「八百万の神」といい、山には山の神、水には水の神と、山川草木・あらゆるものに神が宿っているという考え方があります。そこに、奈良時代に仏教が入って来たわけですが、これがとても日本的な考え方と折り合いが良く、仏教側からすれば、それを取り込んで日本的仏教を作り上げてきたと言えます。
  仏教の言葉(枠中の語)に、「一切衆生 悉有仏性」があります。
「生きとし生けるものは、すべてが仏性を備え成仏する可能性を持つ尊い存在である。だから、すべての存在を尊重しよう。」
ということで、八百万の神と同じく、人間も自然の一部で自然と共存しているという考えが根底にあります。
        ◇
 日本の仏教は、釈尊を起源としますが、その後も釈尊の思想を広げ深めていろいろな経典が作られ、どれを重視するかで宗派が生まれました。しかし、「やおよろず」という基本的な見方が根底にあるため、前記の釈尊の言葉のような、一つの説に固執しない、様々な見方を認める寛容さを作り出しているものと思われます。
 一神教的欧米の世界から見ると、「やおよろず」というようなものの見方は野蛮な原始宗教的なものに見えるでしょうが、実はこれこそが日本人の宗教に対する寛容さを形成する基になっており、宗教的な争いのない社会の維持に役立っているように思われます。
   

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善いことをする                       平成26年8月1日
  つひにゆく道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを
  釈尊のことば
諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自淨其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)
    (「七仏通戒偈」・法句経)
(『古今和歌集』)

 この歌は、平安時代の歌人・在原業平の辞世の歌です。

 「(臨終というものは誰もが最後には迎えねばならぬものとは、前々から聞いて知ってはいたけれども、(その臨終の時が)自分の身に、昨日今日というほどこんなに差し迫って訪れようとは思いもしなかったよ」

という意味で、人生八十年生きても、九十年生きても、誰もが最期の時にはこのような思いに囚われるのではないでしょうか。
     ◇
 時間というものは止めどなく流れてゆくものだということを、最近しみじみと感じます。
 朝、今日は楽しい旅行の日だなと思っていても、その日は瞬く間に過ぎて、夜を迎え翌日を迎えます。半年後に同窓会を計画し、まだ先のことと思っていても、時は確実に経過し、やがて過去の思い出となって行きます。
 人の一生とは、学業を卒え、職に就き、結婚をして家庭を持ち、やがて、子の独立、親との別れ、…などと経過しますが、若い時は、遥か将来のことと思っていたこれらのことも、その時は確実に訪れ過ぎ去っていくのです。
 私たちの臨終についてもまったく同じで、冒頭の歌のように間違いなくやってきます。
     ◇
このように考えると、私たちは、人生の設計は別にしても、日々の暮らしにおいては、あまり先を見ずに目標は身近に立てて生きるのが良いのではないかと思います。
時間の流れの速さとは、主観によって左右されるのではないでしょうか。一年単位で物事を考えると、一年・二年は瞬く間に過ぎ去ってしまうように思えます。一日単位でなすべきことを定め、今日はそれが達成できた、次の日は、新たな一日として生きる、と考えた方が、一生が充実するような気がします。
     ◇
 禅語に「日々是好日」という言葉があります。「にちにちこれこうにち」と読むのが本当だそうで、「にちにち」とは、一日一日が単独の日であることを意味します。
 従って、雨降りにしても、「昨日は雨が降った」、「今日は雨が降っている」、という言い方となり、「昨日は雨、今日も雨」ではない、つまり、昨日と今日とは関係のない一日と考えます。そして、昨日は昨日で良い一日であり、今日は今日で、新しく出会った良い一日となります。昨日・今日・明日ということを関連付けることが、私たちの感情を複雑化する。こだわり、とらわれをさっぱり捨て切って、その日一日をただありのままに生き、清々しい境地に達する、これが「日々是好日」の心だそうです。
     ◇
 それでは、どのように生きたらよいかと言えば、仏教の答えは明快です。
 「悪いことはしない。善いことをする。」ということです。
 これは、「七仏通戒偈」に書かれていることで、全文(枠中の語訓読)は、
諸悪は()すこと()
衆善は奉行(ぶぎょう)
(おの)ずから其の(こころ)(きよ)
()れ諸仏の教えなり
です。
 悪いことはせず、善いことをすると心はおのずと清らかになる。これが、どの仏様にも共通する教えということです。
 何が善く何が悪いかの判断は難しいとしても、確かに、自分に悪いことはしていない、善いことをしているという自覚が持てれば心の平安に繋がります。
 三歳の子供でも知っている簡単なことですが、なかなか守れないのが私たちです。しかし、あらゆる仏の勧める戒めですから、心して努めたいものです。 

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自然の治癒力                                平成26年3月10日
 東日本大震災から丸三年が経ちました。
    釈尊のことば
おのれこそ おのれの主
おのれこそ おのれの帰依
されば 商人の良き馬を調える
がごとく おのれを調えよ
        (法句経 三八〇) 

近親者が目の前で波にさらわれたり、配偶者や子供を一度に亡くしたり、などの過酷な体験が心の傷となり、強い不安や不眠の症状を訴える人が未だに多いといわれます。このような症状を「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」と言いますが、その心を癒すには、医師の適切な治療も必要なことながら、それにも増して「日にち薬」というように、時の経過が妙薬と言えましょう。

私たち人間は、太古の昔から、自分の身体は自分の持つ自然治癒力で直してきました。「日にち薬」もその一種と考えられます。今はまだつらい状態にあっても、何年か後には必ず悲しみは和らぐことでしょう。
医療の発達により、病気の完治率は格段に高まりましたが、自分の身体を治すのは自分自身であるという原点は、いつになっても大切です。

ここで、私たち自身で出来るPTSDに対する対処法を考えてみたいと思います。
先ず、悲しみの癒し方としては、「涙を流す」ことです。
涙とは、眼を保護するための液体ですが、悲しみの涙には、通常の涙の三十倍ものマンガン(体調を維持するミネラルの一種)が含まれるとのことです。マンガンとは、体中でその血中濃度が高まると、うつ病になると言われます。つまり、私たちは悲しみの涙を流すことによって大量のマンガンを体外に排出し、うつ病になるのを防いでいると言えるのです。
また、涙を流すときは、脳からエンドルフィンというホルモンが分泌されます。エンドルフィンは「脳内モルヒネ」ともいわれ、薬品のモルヒネの六倍の鎮痛作用があり、多幸感をもたらします。
私たちは、涙を流すと不思議と心が落ち着くという経験があると思いますが、それはこのような作用によるのだそうです。

次の対処法として、「十分間の唱題」をお勧めします。
唱題とは「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えることですが、これには「呼吸法」と「リズム運動」とが関係します。(読経でも同じです。)
「呼吸法」から説明すると、私たちは一分間に十五回くらい呼吸をしています。しかし、読経・唱題している時は、一分間に五呼吸くらいです。一秒で吸った息を十秒掛けて吐いている勘定です。これは、精神医学会も推奨している、吸った息を出来るだけ長い時間を掛けてゆっくりと吐くという健康法に合致します。
私たちは、吸った息を吐き切らないうちにまた吸ってしまっており、それが続くと、血管が収縮し、血流が悪くなります。ゆっくりした深い呼吸は、副交感神経の働きを高め、収縮していた血管が緩み、血液が体のすみずみまで流れ、心も体も甦ることになるのです。
次に、「リズム運動」についてですが、リズム運動は、セロトニンという心のバランスを整える物質を増やす働きがあることが分かっています。この物質が不足すると、疲れやすく、うつ病などの症状となり、満ち足りていれば、心の安らぎが生じます。
読経・唱題することは、自ずとこの呼吸法とリズム運動を同時に行うことになるわけです。私も、朝夕の読経・唱題のお蔭で健康が維持できているのかと思うとありがたい限りです。

釈尊は、法句経に
「主とし頼りとするものは、おのれを置いて他にない。だから、おのれ自身を制御しなさい。」(枠中の語・意訳)と示しています。
最終的に頼れるのは、自分自身しかない。(しかし、その自分の判断は、法=真理に則って行なわなければならない。)だから、その判断ができるようにおのれを成長させなさい、ということです。
病についても、おのれが主役です。薬や医療に頼る前に、生まれながらに備わっている自然治癒力(免疫力)を働かせる生き方を心がけましょう。

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共生の社会を                                   平成25年11月1日
 紀元前五世紀頃のエジプトとバビロニアの医療の話です。
    法華経のことば
願以此功徳 普及於一切
我等与衆生 皆共成仏道
         (化城諭品第七)

エジプトでは医術が多くの専門別に分化していて、それぞれの医者は一種類の病気のみを扱い、いくつもの病気を扱うことはなかった。従って、眼の医者、歯の医者、頭の医者、腹の医者、等々、多くの医者がいたが、全体を診断する医者はいない。
対して、バビロニアには、医者というものがいなかった。だから、病人がでると、家人は病人を広場へ連れて行く。すると、そこを通行する人が、病人を見て、自分が同じ病気を患ったことがあったり、少しでもその病気について知っている場合は、その病気についての知識や自分が治した時の療法を伝える。
そして、病人の傍を通行する人は、どんな症状かを尋ねずに、知らぬ顔をして通り過ぎてはならぬことになっていた。
(ひろさちや「闘病の思想と共生の思想」)
これを読むと、今の日本の医療は、エジプト型かと思われます。ガン・心臓病とか、個々の臓器とかごとに専門化され、人の病を治すという原点が忘れられているように思われます。
    ◇
これを裏付けるような話を、檀家のTさんから聞きました。
Tさんは、しばらく前に、足が痛くなり靴を履くのも不自由になりました。整形外科を二箇所回って、レントゲン検査などもして診てもらったが何が原因か分からない。そのうち、知人の葬儀があり、仕方なく礼服を着てスニーカーを履いて式に臨みます。それを知人が見咎めて訳を尋ねてきたので事情を話したところ、それはウオノメではないかと言われ、早速、皮膚科に掛かると間違いなくウオノメであったとのことです。
   ◇
思うに、現代社会は、医療に限らずあらゆる分野で些末的な見方が進み、全体的に捉える視点が見失われつつあるようです。
教育について見ても、子供のころから、知識を詰め込み、点数にこだわるような面のみが重視され、善悪の判断や、思いやり、助け合いなど、人間として育てるという面が軽視されています。
思春期から青春というもっとも輝かしい、一生に一度しかない貴重な時間を、小学生も、中学生も、高校生も「良い学校」を目指して、受験勉強一筋です。読書をし、のびのびと生活を楽しむ、というような時間を取り戻したいものです。その方が、結果的には有能な人間として育つのではないかと思います
企業においても、業績を上げることのみが優先され、そのためには社員を切り捨てても仕方がないという考えが根付いているようです。その延長上に人間を部品と見做して、どんどん使い捨てにするブラック企業なるものが増えています。
しかし、企業とは、本来、世のため人のために役立つことを目的として起こされるべきものです。競争に勝たなければという側面は当然あるにしても、現状は人を幸せにするという面があまりにもないがしろにされています。
   ◇
法華経の化城諭品第七に次のような経文があります。
願わくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆倶に仏道を成ぜん(枠中の語の訓読)
【口語訳】願いとするところは、自分たち(出家者)が得たこの功徳をすべての人々に振り向けて、みんなで一緒に仏の境地に達したいものです。
これは非常に有名な文句で、多くの宗派で読まれ、お勤めの最後に読まれるので〈結願の文〉とも、その内容から〈普回向の文〉とも言われます。
自分だけの救いでなく、すべての人が幸せになるようにとの大乗仏教の精神を伝えています。
   ◇
人々が助け合い、知恵を出し合ってよい社会を形成してゆくこと、共生の社会を示唆しているのがバビロニア型で、仏教の教える処でもあります。医療など、それぞれが専門化し高度化してゆくことは必要としても、バビロニア型という原点を大事にしたいものです。

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「幸せ」について                               平成25年8 月1日
 
歯医者さんの話によると、世の中には「入れ歯が合う人」と「合わない人」がいるそうです。
    法華経のことば
 毎自作是念 以何令衆生
 得入無上道 速成就仏身
        (如来寿量品第十六) 
合う人は作った入れ歯が一発で合う。合わない人はいくち作り直しても合わない。合わないという人は、自分の本来の歯があった時の感覚にこだわり、それと違う状態は全部イヤだと感じる。だから、何度やっても合わない。それに対して「歯がなくなった」という現実を涼しく受け入れた人は、「入れ歯」という新しい状況にも自然に適応できるのだそうです。(「内田樹が語る仕事」朝日新聞・‘21.4.15)
        ◇
 「現実をどう受け入れるか」、このことは、私たちの幸せ観に深く関わる問題です。
 私たちは普段、もっとお金持ちの家に生まれていれば…、もっと頭がよかったら… と、自分の今の境遇を嘆きがちです。しかし、今回の大震災のような厳しい運命に遭遇したとき、「平凡に生きていることだけでいかに幸せだったか」を痛切に実感します。そして、何事もなく今日という日を迎えられるということは、実は奇跡的に素晴らしいことなのだと気づきます。
 このように考えると、幸せになるには、「~ならばいいのに」(欲望型思考)と思わずに、「~でなくてよかった」(現状肯定型思考)と考えることだと思います。
        ◇
 それでは、不運な事態が起きてしまった時は、どうするか。
 その時は、「人間万事塞翁(さいおう)が馬」という話を思い出しましょう。
 昔、中国北方の塞近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡(こ)という異民族の土地に逃げてしまう。人々が気の毒がると、老人は「これは福となるだろう」と言う。やがて、その馬は胡の駿馬(しゅんめ)を連れて戻ってきた。
 人々が祝うと、今度は「これは禍(わざわ)いとなるだろう」と言う。老人の息子は乗馬が好きだったが、胡の馬に乗って落馬し足の骨を折ってしまう。
人々がそれを見舞うと、老人はまた「これは福になるだろう」と言う。 一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり村の若者たちはほとんどが戦死してしまうが、足を骨折した老人の息子は、兵役を免れたため無事だった。
 良くないことに出逢った時に、「人間万事塞翁が馬!これが福となるかもしれない。」と思うと、落ち込んだ気持ちも少しは和らぐでしょう。
        ◇
 このように、幸せ観はプラス思考から生まれます。
 フランスの哲学者・アランは、「悲観主義は感情で、楽観主義は意志の力による」と言っています。私たちは楽観的なことは天性のものと思いがちですが、実はそれなりの意志の力(努力)が必要だということです。アランはまた、「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ。」とも言っています。これも、幸福であるためには、「常に笑いがあるようにする」という努力が必要だということでしょう。
          ◇
 以上の考え方は、正に法華経の説く「諸法実相」の教えです。(実台寺だより・第39・50号参照)
 「この世のあらゆる存在は、真実の姿を示しており、それぞれそのままで価値があるのだ」ということで、だから、他と比較することなく、現実がそのままで充分に価値があるのだと受け止めなさい、ということす。
 ところで、法華経の「自我偈」(如来寿量品第十六)の最後に、
毎自作是念 以何令衆生 
得入無上道 速成就仏身

(毎に自らこの念を作す 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速やかに仏身を成就することを得せしめんと)
 仏はいつも、衆生がどうしたら幸せになれるか(成仏できるか) という想いを持ち続けている。
 とあります。仏の大慈悲を表していることばです。
 私たちは、このような教え(諸法実相など)を実践することによって、仏さまの救いに(あずか)りたいものと思います。 

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自己を知る                              平成25年3月10日
  世阿弥は、室町時代に猿楽(現在の能)を大成した人ですが、天才と言われるだけあって、芸を学ぶに当たっての多くの有意義な言葉を残しています。
 日蓮聖人のことば
 我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとほきとは見候ふ事なし。我等が心の内に仏はおはしましけるを知り候はざりけるぞ。
(『重須殿女房御返事』)

 「初心忘るべからず」(『花鏡』)もその一つです。一般には、物事を習い始めのころの新鮮な意気込みを忘れずに持続しなさい、というような意味で用います。しかし、実際には世阿弥はもっと深い意味を込めているのです。
        ◇
 ここでの「初心」とは、習い始めのころの芸の力量のことです。「最初はこんなことしかできなかったのだ」と初心のころの力量を覚えていることによって、現在の自分の力がどのくらいの位置に達しているかが分かるというのです。
 さらに、「時々の初心忘るべからず」とも言っています。これは、習い始めて1年後のあるいは5年後のその時々の力量がどの程度だったかを覚えていることによって、さらに自分の現在の力量をしっかり把握できるということです。
        ◇
 そういえば、私にも思い当たる体験があります。高校3年の時のことですが、たまたま高校1年のころの英語のノートが出てきました。それを見ると、ある一つの単語(forecast=予報)に真っ赤な線が何本も引いてあり、当時それを一所懸命に覚えようとしていたことが分かります。今ではそんなことは当たり前のこととして知っていた状態なので、「あー、これだけ自分に力が付いていたんだ。」と実感したのを覚えています。この場合、「高1の時の実力」が、「時々の初心」です。
 このように「初心忘るべからず」は、芸を学ぶにしてもスポーツをするにしても、自分の現在の力量を知るのに大切な一句です。
 世阿弥自身が、これを「当流に、万能一徳の一句あり」(『花鏡』)と記し、「あらゆる効能がこの一句に込められている」としているのも肯けます。
        ◇
 また、世阿弥は「離見の見」(『花鏡』)ということも言っています。
 一般に、芸を演ずる役者は、その役になりきって初めて迫真の演技ができるといわれます。しかし、「熱演している自分の刹那々々にのめり込んでいる舞台というものは、得てして観客は逆に白々しい気分になるものである」(観世寿夫氏)とあるように、本当に感動を呼ぶには、自分の演技が観客からどう見られているかという視点も必要となります。
 客席から舞台を見るのと同じように自分を見ることができる境地、これが「離見の見」です。
 大リーグのイチローが「イチローという選手に対する見方は、僕が一番厳しかった。」と述べたことがありますが、まさしくこの境地を言っているのでしょう。
        ◇
 自己を知ることの大切さとその方法についての世阿弥のことばを記しましたが、日蓮聖人は、『重須殿女房御返事』というお手紙で、
 「地獄は遥か地の下にあり、仏さまは西方十万億土の彼方にいらっしゃると説く経文もあるけれどもよくよく考えてみると、地獄も仏も私たち五尺の身体の内に存在すると思われる」
と述べ、それに続けて
 「私たち凡人は、近すぎる睫毛と、遠すぎる宇宙の果てを見ることはありません。だから、(身近かすぎて)自分たちの誰の心の中にも、仏さまはいらっしゃるのだということに気付いていないのですよ。」(枠中の語・私訳)
 と書いておられます。
 私たちは、確かに「一切衆生 悉有仏性」の教え、自分も他の誰もが仏性を宿した尊い存在なのだということを、身近か過ぎるゆえに忘れがちです。
 自己の中に仏性があるという自覚を常に持ちたいものです。

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災害列島に生きる                             平成24年11月1日
      法華経の言葉
 若持法華経(にゃくじほけきょう)
 其身甚清浄(ごしんじんしょうじょう)
           【法師功徳品第十九】 
  私たちは、日常、「こんにちは」と挨拶します。何気なく使っている言葉ですが、良く考えるとどんな意味なのか不思議な言葉です。
外国の例を見ても、挨拶には「你好(ニィハォ)」、「グッドモーニング」のように、相手の幸運を祈る言葉が入っているのが普通のようです。
では、「こんにちは」には、どんな思いが込められているのでしょうか。
        ◇
 私たちの住む日本列島は、太古の昔から繰り返し大きな地震に見舞われ、津波に襲われてきました。ここしばらくの間は、大地震のはざ間にあり平穏な時期が続きましたが、阪神大震災を転機として、また活発な活動期に入ったといわれます。いつどこででも大地震や火山の噴火が起こりうる状況になっています。また、毎年必ず台風が襲来し、洪水、土砂崩れも後を絶ちません。
 このように見ると、日本列島はまさに災害列島であり、明日どうなるかは誰にも知れないという思い、「無常」の思いを人々の心に刻んできました。
        ◇
 「こんにちは」は、このような無常の思いを背景として生まれた言葉といえましょう。   
 芥川賞作家で僧侶でもある玄侑(げんゆう)宗久師は、「こんにちは」とは〝寂滅現前(じゃくめつげんぜん)〟の義であるといいます。つまり、さっきまでの心を寂滅させて、新たな心を立ち上げることで、「昨日とは違う今日でありますように」という祈りが込められたものということです。
 私たち日本人は、人為ではどうにもならない大自然の猛威に対し、このような祈りの心、ガマンという忍辱(にんにく)の心、あるいは、シカタガナイという(あきら)めの心などを以て対処してきました。このような対処の仕方の積み重ねが、日本人の深い内面の精神を形作り、事が起きた時に暴動や略奪などにならず、人々の冷静な秩序ある行動や助け合う姿勢などにつながっていることと思われます。
        ◇
法華経の法師功徳品第十九に
「若持法華経 其身甚清浄」

訓読:()し法華経を(たも)たば 其の身甚だ清浄(しょうじょう)ならん

もし法華経をよく理解し信じて実践してゆくならば、その人の身ははなはだ清らかでありましょう。(私訳)
とあります。
 この経文では、「(たも)つ」という言葉が特に大切です。ここでは、「よく理解し信じて実践してゆく」と訳しましたが、これは具体的にどうすることかを考えてみたいと思います。
 法華経の教えは、「諸法実相」に集約されるといわれます。「諸法」とは、すべての事物、「実相」とは、ありのままの姿・真実のこと(「岩波仏教辞典」)ですから、「この世のあらゆる存在は、真実の姿を示しており、それぞれそのままで価値があるのだ」ということです。(実台寺だより・第39号参照)すなわち、成績が悪かろうが、走るのが遅かろうが、貧乏であろうが、病弱であろうが、他と比較することなく、そのままで充分に価値があるのだと考えるのです。このことが、本当に理解できれば、私たちはどんな状況でも、今置かれた立場を不満なく受け入れられることに繋がり、その身は清浄である、即ち、安らぎの悟りの境地に入れるであろうということになります。
        ◇
 私たちは、地震・津波・火山の噴火・台風など、世界でも有数の災害列島で民族として上手に付き合ってきているといえましょう。
 そこには、地球は揺れるもの、世界は変わりゆくものという日本人独自の世界観があります。そして、このような世界観が築かれた根底には、「諸法実相」をはじめとする数々の仏教の教え、諦め・忍辱などの考え方が(あずか)っていると思われます。
 災害列島に生きるがゆえに、私たちは良い民族性を(はぐく)めた。また、温泉、おいしい水、美しい観光地などに恵まれ、耐震性に強い様々な高度の技術などが生み出されたと考えれば、それほど悪くはない気もします。
 日本の美点を自覚し大事にしていきたいものと思います。

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「非暴力」のちから                              平成24年8月1日
      法華経の言葉
 この語を説く時、衆人あるいは杖木・瓦石をもって之を打擲すれば、避け走り遠く住して、なお高声に唱えて言わく、我あえて汝等を軽しめず、汝等皆まさに作仏すべし。
           【常不軽菩薩品第二十】 
 今年の一月の深夜、大阪でネパール料理店を開いていたダマラさん(41歳)という在日ネパール人が、路上で酔った男女四人の若者に因縁をつけられ、殴る蹴るの暴行を受けて死亡した事件がありました。ダマラさんは、20代の従業員二人と帰宅の途中でした。殴りかかられる際に従業員に「手を出すな」と言い、自らもまったく抵抗しなかったそうです。
 従業員たちが他に連絡を取っている間に、暴漢たちは倒れたダマラさんに暴行を続け死亡させました。監視カメラの記録でも、彼はまったく反撃していませんでした。
 ダマラさんは、普段から、「日本で争いごとになっても、絶対に手は出すな。一人一人がネパール大使になったつもりで振舞おう。」と言っていたとのことです。
 最後まで耐えに耐え非暴力を貫いた結果の悲劇でした。
          ◇
 「非暴力」とは、物事の解決のために暴力を用いないということです。
 その元祖とみなされるガンジーは、インドをイギリスの植民地から独立に導きました。「非暴力・不服従」を提唱し、「非暴力の戦士はいかなる仕打ちも覚悟しなければならない。これを守れる者だけが、運動に参加できる」、と呼びかけ、これを受けて、ガンジーの弟子の一人は非暴力運動家の兵士を訓練・養成しました。
 ある時、訓練を受けた非武装の兵士や群衆が市場に集まったところへ、イギリスの政府軍が発砲しました。群衆は非暴力の運動に教化されていたので、前列の人々が倒れると後列の人々が前進し銃火に晒されるという状況で、この衝突は朝11時から夕方5時まで続きました。(イギリスの連隊の一部は彼等に発砲することを拒絶したといわれます。)
 このような犠牲を重ねての独立の達成でしたが、戦闘を行っていたらもっと多くの犠牲者が出、独立もならなかったと思われます。非暴力の勝利といえましょう。
 この戦術は、米国の黒人差別に対抗したキング牧師、ミャンマーの軍事独裁政権に対したアウンサンスーチー氏などに受け継がれています。
          ◇
 法華経第二十に「常不軽菩薩品」があり、このようなことが書かれています。
 一人の仏道修行者がいた。彼は人に出会うと誰に対しても合掌して礼拝し、「私はあなた方を敬います。決して軽んじたりしません。なぜなら、あなた方はみんな必ず仏になる方々だからです。」と言って讃嘆した。彼は、経典を読誦したりはせず、人を見ると近付いて行って、一つ覚えのように同じ言葉を繰り返すので、人々は気味悪がり、怒って、この修行者に罵声を浴びせ、杖で打ったり石や瓦を投げつけたりするが、彼は決して怒らず、遠くへ走って逃げては、声高に「あなた方を軽んじません。」と、繰り返すので「常(じょう)不軽(ふぎょう)(いつも軽んじない)」というあだ名がついた。この一途の行によって、ついに人々を教化し自らも仏となった。
 このように、常不軽菩薩は罵られ迫害されても、言い返したりせず、ひたすら合掌礼拝するだけでした。この姿勢は、仏教徒の非暴力の規範としてよく引用されるところです。
          ◇
 非暴力は、はるかに暴力に勝ります。強い心がなければできません。そして、長い目で見れば世論の共感を呼び、必ず勝利するものと思われます。
 ダマラさんの場合は、悪い結末になりましたが、この事件について「ネパール人の死 申し訳ない」という中学生の投書が載りました。(朝日新聞2/25)
 ダマラさんが普段から非暴力を説いており、それを自ら実践したことに感動したこと。相手を尊重し、静かに矛を収める、これが日本人の心ではないか、と筆を進め、「心から謝罪すると共に、決して手を出さなかった彼の姿から学ぶべきだ。」と結んでいます。
 このような影響を多くの人の心に残せたことも「非暴力のちから」と言えましょう。 

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「冥福を祈る」とは                          平成24年3月10日
 人との別れとは、その別れが悲しければ悲しいほど、ある意味では幸せなのだといわれます。
法華経の言葉
常住此説法(じょうじゅうしせっぽう) 
(常にここに住して法を説く)
【如来寿量品第十六】  

 自分にとってどうでもいい人がいなくなっても、悲しみは感じないものです。悲しいと感じるのは、その人が自分にとってかけがえのない人だったから、つまり、何ものにもとって代われない密度の濃い時間を共有してきた間柄だったからといえましょう。
 悲しみが大きいほど、共に過ごした時間は濃密だったはずであり、そのような幸せな時間をかつて過ごすことができたということ、そのような思い出がもてたということが、ある意味で幸せといえるのでしょう。
   ◇
 未曽有といわれる大震災からちょうど一年。突然一瞬のうちに愛する肉親を失ってしまった人々の悲しみは、想像を絶して深く、未だに苦悩の中から立ち上がれないでいる多くの人々の姿がテレビ・新聞等で報じられています。
 これらの方々が立ち直るには、時の経過が必要です。しかし、立ち直れた暁には、この幸せだった思い出が、その人を後押しする力となってくれることでしょう。
   ◇ お釈迦様は、インドの北方クシナガラというところの沙羅双樹の下で、涅槃に入られました。
 その様子は、「涅槃図(右図)」としてたくさん描かれていますが、その安らかなお姿は人の最後の理想的な姿をお手本として示してくれているように思えます。
 涅槃図には、そのお釈迦様を取り囲み、たくさんの弟子や村人や森の動物たちまでもが嘆き悲しんでいる様子が描かれています。
 お釈迦様は、それらの嘆き悲しむ衆生をご覧になって、
 「あなた方は何も嘆くことはありません。今、私の身体は滅していきますが、私の説いた教えはあなた方の心に残っているはずです。仏とは、私の身体ではなく私の説いた教えです。その教えを忘れずに、実践してゆくならば私、即ち仏は、常にこの世に在って法を説き、あなた方を導いていることになるでしょう。」と言われました。
 法華経にも、「仏はいつもこの世に在って法を説き続けている。」(枠中の語)とあります。
 確かに、お釈迦様の教えは、たくさんの経典となって残されており、今も仏はこの世に在って私たちを導いてくださっているといえましょう。
   ◇
 亡くなった人を考えるときも、おなじように考えられるのではないでしょうか。
 故人がかつて諭してくれた言葉や働いていた姿などを覚えていることによって、故人は絶えず私たちの心の中に生き続け私たちを見守ってくれていると考えるのです。
 仏事において、私たちはよく、亡き人の「冥福を祈る」といいます。これは、故人があの世で安らかでありますようにと祈ることですが、故人に安らかであっていただくには、私たち残されたものが、故人の期待に応えられるよう、元気にしっかりとやって行くことだと思います。
  そして、そのような思いをもって生きることが悲しみから少しでも早く立ち直るための一つの方法でもあるのです。
 


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物から心へ                                 平成23年11月1日
  今、世界中が苦悩しています。
         法華経の言葉
   三界は安きことなし 
   猶(なお)火宅(かたく)の如し
  (この世界は少しも安らかなところがありません。
    丁度火のついた家のようなものです。)

          【妙法蓮華経 比喩品第三】
 我が国の大震災を始めとして、タイの大水害、ギリシャの国家破綻、欧州諸国やアメリカの金融不安、そしてまた、先日のトルコ地震と、大変な事態が続き、将来への明るい展望が見えません。
 思うに、私たち人類の文明は徐々に崩壊に向かっており、その漠然とした予感が閉塞感として時代を覆っているように思えます。
          ◇
 私たちは、自分たちの生活の快適化のために、地球の資源を浪費し、環境を破壊してきました。
例えば、石油について考えます。
 ジャンボ旅客機を羽田から北海道の千歳空港まで飛ばすのにドラム缶(二百㍑)五十本分の燃料を必要とします。世界では、一日に何千便もの飛行機が空を飛んでいるわけであり、その他、自動車、船舶、火力発電、工場、化学部品の原料としての使用などを考えると、その消費量の大きさが想像されます。統計によると、現在世界全体では、一日に八十六億五千万リットル(ドラム缶四千三百万本分)の石油を消費しているとのことです。
 そして、石油は既に涸渇期に入り、あと数十年で無くなってしまうとのこと。地球が何十億年もの時間をかけて蓄えてきた資源を、現代人は自分たちの生活を快適にするために、わずか百年余りで使い切ってしまおうとしています。
          ◇
 そして、その結果、年間六十億トンもの二酸化炭素を大気中に放出して、温暖化、砂漠の拡大等々を生み出しています。また、原子力発電からは何億年も経たないと無くならない放射能のゴミをたくさん排出しています。これらの負の遺産はすべて次の世代の、私たちの子や孫たちが背負わねばならないのです。自分たちが散々楽しんでおいてそのつけを次世代に廻しているというのが今の構図です。
          ◇
 法華経(比喩品)に、「火宅の譬え」という話があります。
ー大富豪の大邸宅に火事が起きる。中には、多くの子供たちがいるが、火の恐ろしさも知らず遊びに夢中で逃げようとはしない。それを富豪の父が、方便を以て救い出すー
という話です。  現在の環境破壊の様相は、正に法華経の説く「火宅(燃えている家)」と言えましょう。火事は人類をも滅ぼすかもしれないのに、その恐ろしさに気が付かず、未だに放漫に浪費を続け、二酸化炭素抑制の京都議定書の採択にさえ加わらない大国が存在するのも事実です。
          ◇
 私たち日本人の生活にも、一考を要することがあるようです。
 ある外国人曰く、「日本人はなぜトイレの便座まで温めなければいけないのか?」、「有り余る体力があるのに、どうしてトランクやゴルフバッグを宅配便で送るのか。」
 その他、多量の残飯の排出、贈答品の過剰包装など、バブル期以後の使い捨ての文化から抜けきれていない実態があります。
          ◇
 しかし、今回の大震災を契機に人々の価値観も大きく変わったと言われます。
 人生いつどうなるか分からないという《無常》を実感し、「昇進や金のために無理するよりは家庭・家族を大事に、健康で」とか、「無駄を省き飾らない質素な生活を」、さらには「人との出会いを大切にし、他人の役に立ちたい」などの意見が目立ちます。
 「丈夫ナ体ヲ持チ、欲ハナク、質素ニツツマシク、人ノ話ヲヨク聞キ、他人ノ手助ケヲスル。」…宮沢賢治「雨ニモマケズ」が究極のお手本と言えましょうか。
 いずれにしても、「物の豊かさから心の豊かさへ」、「便利さは多少失くしても安全・安心を」が、大震災後の流れと言えましょう。

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日本のよさを見直す                          平成23年8月1日
 
        日蓮聖人のことば
 そもそも地獄と仏とはいづれの所に候ふぞとたづね候へば、(中略)我等が五尺の身の内に候ふとみえて候ふ。
           【重須殿女房御返事】 
 「未曾有」の語源は、梵語(古代インド語)で「びっくりした」という意味で、それが漢訳されて「未だ曾て有らざる(今までにない珍しい)」となったのだそうです。
 今回の東日本大震災は、マグニチュード九・〇の大地震、十数メートルの高さに及ぶ大津波、さらにはレベル7という最高の深刻度となった原発事故が重なって、まさしく未曾有の大惨事となってしまいました。
 二万人を超す死者・行方不明者、四十万人に及ぶ避難民、その他、建造物や道路・港湾などのインフラ破壊など甚大な被害となる中、仮設住宅での孤独死、各産業の業績悪化・倒産、その結果としての解雇・過労死、放射能汚染による故郷喪失・一家離散など、多くの人が大変な苦しみを味わい、我が国全体としても、政治の混乱も重なって、将来の展望が見えない沈滞ムードが漂っています。
          ◇
 しかし、このような大変な状況に出遭ったからこそ、再認識されてきたものがあります。それは、阪神大震災の時にも言われましたが、《日本人のモラルの高さ》です。
 アメリカでは、「被災者の忍耐強さと秩序立った様子に驚きと称賛の声が上がっている。『日本ではなぜ略奪が起きないのか』が相次いで議論のテーマとして取り上げられている。」と報じられています。
 各国の取材陣も、被災者のお互いに少ない食べ物を分け合う姿や、商店でも、このようなときには必ず見られる便乗値上げが見られず、むしろ「こういう時だから元気をつけて」と、普段の半値でパンを売る店や、人々が我慢強く何時間も列をなす姿を紹介し、日本以外ではまず考えられないことと報じています。
 ハイチ地震の際の略奪や暴動、アメリカ・フロリダ州のハリケーン被災者の窮状に付け込み、ホテルの宿泊料や発電機の値段がそれぞれ4倍・8倍にも跳ね上がったことなどを思い出しても、確かに誇りとするに値するものといえましょう。
 もちろん、震災に便乗した犯罪や問題行動がまったくなかったわけではないようです。各所で、従業員のいない店舗や住宅、ガソリンスタンドや車などのガソリンを狙った窃盗事件が相次いだり、募金詐欺事件も発生しました。
 また、生活物資の買いだめが全国に拡大したり、原発事故などによる風評被害が問題視されています。
          ◇
 日蓮聖人は、
 「地獄はどこにあり、仏様はどこにいらっしゃるかと問われたときに、地獄は地中の奥深い処にあり、仏様は西方十万億土の遠い世界にいらっしゃると説く経文もあるけれども、よくよく考えると地獄も仏も私たちの心の中に存在すると言えるのだ。」(枠中の言葉)
と言っておられます。
 この文を引くまでもなく、人の中には善(仏)の心と悪(地獄)の心とが同時に存在します。私たちは、この仏の心(仏性)のほうを育てていくことが大切になります。仏教ではあらゆる生きとし生けるものは仏性を備えておりそれぞれが尊い存在だと説きます。
 日本人は豊かな自然の恵みの中に育ち、あらゆる生きとし生けるものを大切にする生き方を自然に身に付けてきたと思われます。そして、その後ろ姿を見てその子供が育つ。このようにして、民族の文化・モラルといったものは受け継がれていくのです。
          ◇
 今回の電力不足を契機に考えてみると、私たち日本人は高度成長期を境に、不必要に贅沢な暮しをし、資源を浪費してきたように思います。冷暖房は使い過ぎ、コンビニやテレビが24時間やっているのもおかしい、このような点を改め、以前のようなもう少し質素な暮らしに戻すべきだと思います。
 無用な贅沢と浪費を排し、自然の恵みを享受するような生き方に舵を切れば、世界の認めるモラルの高さと相俟って日本は世界各国が刮目するさらにすばらしい国になるでしょう。

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他者のために                                   平成23年3月10日
 
    仏教のことば
 
 もう こ  り  た
  忘 己 利 他
   
(己を忘れ他を利す) 
       
(『山家学生式』)
 「クマが絶滅の危機に瀕している!」このニュースを聞いて、兵庫県尼崎市のある中学の生徒たちがクマを救おうという運動を起こしました。というのは、市役所を始めとして環境庁にまで相談しても、わが国には野生動物を保護する機関はどこにもないと分かったからです。
 そして、調べていくうちに、これは、単なるクマの問題ではなく、日本の森の危機であり、水資源の危機であり、私たちの生存にも関わる問題と気付きます。
       ◇
 クマは、なぜ人里に下りて来て殺されるのか。それは、奥山の荒廃が原因と分かります。
昔は、奥山はブナやミズナラなどの落葉広葉樹の巨木が生える原生の森でした。広い空間がいたる所にあって風通しが良く、地面はフカフカとして保水力抜群で、苔からは水が滴り落ちる、…このように、奥山とは、神々しさを感じるほど美しく、清らかさに満ちていたと言われます。
 このような森は、植物だけでは成り立ちません。動物が歩きまわり、木に登って枝を折って空間を作り、木の実を食べて排泄するなど、動物は植物に寄生しているのではなく、密接な共生によって森をつくり上げているのです。
       ◇
 それが、戦後の開発や造林によって奥山はスギ・ヒノキの人工林に転換され、その後の国内林業の衰退によって人工林も放置されたまま荒れ放題となり、かつて豊かだった森の多くが死の森と化してしまいました。
 その結果、山で食べ物を得られなくなった鳥獣が、里へ降りてくることになります。中でも、一番多量の食物を必要とするクマから人里への出没を余儀なくされることになったのです。
       ◇
 このようなことが分かり始め、この野生動物を守る機関が何もないと気付いた時に、これでは動物たちが可哀そうだと生徒たちは独自にその救済に立ち上がったのです。しかし、そのためにはあらゆる勉強が必要になってくる。多くの生徒たちが、信じられないような猛勉強を始めたと、指導に当たった先生は証言します。
 そして、それが県知事を動かし、天皇・皇后両陛下への訴えを通して、植樹祭にはスギ・ヒノキに代わって広葉樹を植えることなり、狩猟禁止令の発令という成果まで上げるに至ったのです。
 自分以外の弱者のためになさねばならないという崇高な目標を持った時、人は別人になったかのような信じられないような変わり方をするものだと、先生は述懐しています。
       ◇
 「忘己利他」という言葉があります。「自分を忘れて他者のためにつくす。(他を幸せにすることで自分も幸せになる。)」という大乗仏教の根本精神を表わす言葉で、菩薩さまの生き方を表わす言葉でもあります。
 思うに、自分一人が満足するのは、それだけのことであるが、相手が喜ぶのを見てこちらもうれしくなるというのは喜びが二倍になるともいえる訳で、それが忘己利他の真髄と言えましょう。
       ◇
 人は誰でも仏になる種・仏性を宿していると言われます。人間の勝手な行ないが、野生動物を苦しめている、そのような現実が中学生たちの仏性を目覚めさせ、忘己利他の行動となって表れたのだと言えましょうか。

    忘己利他は慈悲の究極なり (『山家学生式』)

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心の安らぎを求めて                           平成22年11月1日
 
    釈尊のことば
諸 行 無 常 (しょぎょうむじょう)
諸 法 無 我 (しょほうむが)
涅 槃 寂 静 (ねはんじゃくじょう)
            (『成実論』)
 人は一日に六万個の物事を考えるといわれます。そして、その九十五パーセントは前日にも前々日にも考えていたことであり、ちょうど、同じレコードを毎日繰り返しかけているのと同じようなものだといいます。
 ここで問題なのは、その習慣的な考えの約八十パーセントがネガティブ(否定的)なものであって、つまり、ほとんどの人は、一日に四万五千回も後ろ向きの考えに囚われていることになるということです。
 そして、そのような思考回路は、人が太古の昔から色々な危険から身を守るために身に付けた習性なのだそうです。(「脳にいいことだけをやりなさい!」三笠書房刊)
          ◇
 このように、私たちの思考はネガティブなものに傾きがちです。そして、ネガティブな思考は、憂うつや不安を引き起こし、健康上もマイナスに作用し、ポジティブ(肯定的)な思考によって、脳内は穏やかになり、有益な影響がもたらされていることが実証されています。
 それでは、ネガティブな思考を断ち切って、心の平安・幸せ感を得るにはどうしたらよいでしょうか。
          ◇
 人間の表情について考えると、怒り・恐怖・驚きの表情は、民族・国籍に関わらず共通して良く似ているのだそうです。それは、それらが人間の生存に関わる表情で先天的に持ち合わせているものだからです。
 ところが、喜びや笑顔の表情は、生存には直接かかわらないので、私たちは周囲の人の表情を見て後天的に学ばないとなかなか出てこないと言われます。確かに、いつでも笑顔で人に接するとか、大変な時でも笑顔を見せられるというのは誰にでもできることではありません。そして、努力によって、そのような表情を身につけることが、人間関係の潤滑油になり、幸せ感につながると言えましょう。
 明るく前向きにと努力すれば、脳の仕組みも変わります。幸せな人は、努力によって幸せを獲得しているともいえるのです。
          ◇
 仏教に三法印の教えがあります。
 「印」は印章(しるし)・標識のことですから、三法印とは、「仏教を特徴づける三つの真理」のことです。
①「諸行無常」(あらゆる一切のものはうつりかわる)
②「諸法無我」(すべてのものはひとりでは存在しえない、多くの縁によって存在する)
③「涅槃寂静」(煩悩の火が消えれば、静かな安らぎの境地になる)
の三つです。
 「諸行無常・諸法無我の教えを実践し自己を練磨しつつ、涅槃寂静を目指す」ことで、わかりやすく言えば、「一切のものは移り変わる(諸行無常)のであるから、人の命も常住ではないと悟り、すべてのものは何らかの繋がりをもって存在する(諸法無我)のだから、我ひとりの思い通りにはならないものと理解して、欲を離れ安らぎの境地(涅槃寂静)に安住する」という解釈にもなりましょうか。
          ◇
 私たちは、日常的にいろいろな悩みや不安に囚われます。そして、安らぎの境地を求めます。そこで努力し、一時的にその境地に達せられたとしても、また次なる不安に遭遇する、その繰り返しが、私たち凡夫の常です。 絶対的な安心の世界に至るには、やはり、宗教による心の安らぎが必要ということでしょう。
心の安らぎは最上の幸福である (『法句経』)

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「悟り」ということ                              平成22年7月10日
    日蓮聖人のことば
善からんは不思議、悪からんは一定と思へ。
                [『聖人御難事』]
 「悟りといふ事は如何なる場合にも、平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」(『病牀六尺』)
とは、正岡子規のことばです。
 子規は、若くして脊椎カリエスと言う難病に冒され、最後の数年間はほぼ寝たきりで、
「絶叫。号泣。益々絶叫する。益々号泣する。その苦その痛何とも形容することは出来ない。…誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか。」(同)
とあるように、連日治まることのない塗炭(とたん)の苦しみに耐えながら、死の二日前まで執筆活動を続けました。
 冒頭の言は、そのような状況から到達した「悟り」についての理解であり、重みのあることばと言えましょう。
          ◇
 宗教とは、心の平安を目指すもので、その境地を仏教では、「悟り」・「安心(あんじん)」などと名付けます。
 お釈迦様は、菩提樹の下で悟りを開かれた時に、先ず「四諦(したい)」(四つの真理)を説かれました。
 それは、先ず「人生は思い通りにはならないものであり、それを思い通りにしたいと思うところから苦が生じる」(苦諦 くたい)。従って、「苦の原因は私たちの欲望である」(集諦 じったい)。だから、「欲望を無くせば苦もなくなる」(滅諦 めったい)。そして、「欲望を無くす方法は八正道という徳目を実践することである」 (道諦 どうたい)と示されたのです。
          ◇
 「悟り」を考えるとき、「人生は思い通りにはならないもの」という認識が重要な鍵になると考えます。
人は、生まれようという意志とは関係なく生まれ、老いたくなくても確実に老い、愛する人ともいつかは必ず別れなければならず、優れた能力を持ちたいと願ってもままならない。つまり、私たちの人生は思い通りにならないことだらけです。
 そして、考えてみれば、私たち人間が、無限の宇宙の中にあって、大自然の運行に身を任せているだけのちっぽけな存在であることを思えば、むしろほとんどのことが思い通りにならなくて当たり前なのです。
 このことが理解できれば、辛いこと苦しいことに出会っても、人生においてはそれがむしろ当たり前なのだと諦めることができるでしょう。
          ◇
 諦める(=明きらめる)とは真理を悟ることです。それが間違いのない真理と分かれば、どんな不条理なことであっても受け入れざるを得ない、これが諦めるということです。
 子規の場合も、自分の病は不治のものでいかにもがいても無駄であり、大変でも付き合っていくほかはないという心境に達したものと思われます。
          ◇
 日蓮聖人は、『聖人御難事』という御書において
(人生において)善いことがあったとしたらそれは思いもよらない有難いことなのであり、悪いことがあったとしてもそれが当たり前のことなのだと思いなさい。(枠中のことば・私訳)
と示されています。
 聖人が身延山に入山されてから、その指示のもとに弟子の日興上人は駿河の国で活発に布教活動を行ない、多くの弟子や農民の信者を獲得していきました。しかし、それが権力から睨まれるところとなり、熱原(あつはら)という土地で信徒の農民二十名が捕えられ、三名が斬首、他は禁獄という苛酷な刑に処せられた出来事がありました。《熱原法難》と呼ばれます。
 上は、この時に聖人が送られた励ましの手紙の一部です。


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懺悔とは?                                  平成22年3月10日
 
     日蓮聖人の言葉
 小罪なれども、懺悔せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども、懺悔すれば罪きえぬ。     (『光日房御書』)
 
 一昨年の三月と五月に無差別殺傷事件が相次いで発生しました。「土浦連続殺傷事件」「秋葉原無差別殺傷事件」と呼ばれる事件です。いずれの事件も「世の中が嫌になった」とか「死刑になりたかった」とかいう身勝手な理由から「誰でもいいから殺したかった」というもので、その結果、多くの人が犠牲になりました。
          ◇
 土浦事件の被告は、その後死刑を求刑されますが、それは自ら望んだものであり、これで自身の願望が成就したとして、一貫して反省や謝罪の態度は見せていません。そして、自ら控訴を取り下げて今年一月に死刑が確定しました。
          ◇
 その点、秋葉原事件の被告は、後日、被害者に謝罪の手紙を送り、「取り返しのつかないことをしてしまった」と反省し、「皆様から奪った命・人生・幸せの重さを感じながら刑を受けたい。」、「どうせ死刑だと開き直るのではなく、きちんとすべてを説明しようと思っている。」と書いています。
          ◇
 ところで、「懺悔」という言葉があります。
 懺悔とは、「自分の犯した罪を仏や師の前で告白し、悔い改めること」です。つまり、懺悔は「告白する」と「悔い改める」の二つの行為から成り立っていることになります。
 初めの「罪を告白する。」これによって心が解放され、すがすがしい気持ちになれる効果が得られます。
 そして次に、「悔い改める。」これが大切なことと言えますが、これは、今までの煩悩に覆われた誤った生き方を改めて、誰もが本来持っている仏性を働かせる生き方をする。少しでも世のため人のために尽くそうという心を起こす、ということです。
          ◇
 この観点からみると、秋葉原事件の被告からは、自己の犯した罪を認め、悔い、告白し、少しでも償おうとの真摯な心が読み取れます。死罪は免れぬにしても、心の解放は得られているのではないでしょうか。
 一方、土浦事件の被告は強がりの姿勢はありますが、心中には鉛のようなものが鬱屈したままの状態ではないかと思われます。
          ◇
 日蓮聖人は、『光日房御書』で
小罪であっても悔い改めなければ悪道に堕ちることは避けられないが、大罪を犯しても悔い改めればその罪は消える。      (枠中の語・私訳)
 と述べておられます。
 光日房という女性が、武士として戦い殺人を犯さざるを得なかった、亡き息子の成仏を気遣うのにたいして、母子が熱心に法華経を信心していたのであるから成仏は疑いないと教示している部分です。
          ◇
 簡単にいえば、今までの生活の誤りを正し、もっと善い生活に入ろうという大決心をすること、これが懺悔です。懺悔を習慣とすることにより、自分の足りないところを少しずつ補い、徐々に自己の完成を目指すことが大切と言えましょう。
(注) 「懺悔」は、「サンゲ」と読み、元来、仏教用語です。他の宗教でもこれを使用し「ザンゲ」と通称し、それが一般の読み方になっています。
[小林一郎著「観普賢経(懺悔経)」参照]

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すべての衆生を救わん                               平成21年11月1日
  「友愛政治」―16年振りに選挙による政権交代を果たした鳩山内閣の掲げる政治理念です。
    四弘誓願(第一句)
 衆生無辺誓願度
 (しゅじょうむへんせいがんど)
   衆生は無辺なれども度せんと誓願す
             (『摩訶止観』)

 鳩山首相は10月26日の所信表明演説で、「政治には弱い立場の人々、少数の人々の視点が尊重されなければならない。これが友愛政治の原点だ。」と述べています。
          ◇
 貧富の二極化が指摘されて久しくなりますが、近年特に貧困が拡大しており、低所得者層の実態は深刻だといわれます。
 「いまや、非正規雇用は全雇用の3分の1に達している。フリーターの平均年収は140万円、働いても食べていけない人が増えている。国民の25%が貯蓄ゼロ、収入が途絶えた途端にスッカラカン。生活保護を受けるしかなくなるが、若い人は申請しても99%が追い返される。」とは、貧困ネットワーク事務局長を勤める湯浅誠氏の話です。
          ◇
 この話を裏付けるように、今年4月に北九州市で39歳の男性が餓死した事件がありました。彼の場合、高校時代はラグビーをやっていたくらい元気でしたが、会社の仕事が苛酷で身体を壊し退職、アルバイトを転々とした末の結末だったようです。
 一昨年にも「おにぎりが食べたい」と言い残して餓死した52歳の男性がいました。この人は生活保護を申請しても却下され「生活困窮者は死ねということか」とノートに書き遺していたと言います。
          ◇
 私たちの身近でも、長時間労働や低賃金に苦しんでいる例はたくさん耳にします。
実際、当山にも以前にも増して様々な悩みを抱えた人が相談にくるようになりました。お寺ではその人たちの話をじっくり聞いてあげることしかできませんが、本当に苦しい顔で来た人が、帰るときは心なしか少しゆったりした顔つきになって帰ります。
 しかし、貧困の解決にはやはり政治の力が必要です。
 「友愛政治」の実現を期待したいものです。
          ◇
 「四弘誓願」(=「四誓」)と呼ばれる四句の偈(詩句)があります。
 「誓願」とは、梵語で〈プラニダーナ〉といい「前に置く」の意ですので、修行を始める前に立てる誓いということになります。「弘」は広大なの意ですから、「四弘誓願」とは、どの仏さま・菩薩さまにも共通する四つの広大な誓願ということで「総願」と言われます。
 従って、多少の字句の違いはありますが、仏教のすべての宗派で唱えられています。
          ◇
 「衆生無辺誓願度」は、その第一句です。「無辺」は「際限なく多い」、「度」は「彼岸に渡す=救う」ですから、
 苦悩にあえいでいる衆生は限りなくたくさんいるがそれをすべて救おうと誓願します、
という意味になります。
 前述のように、世間では沢山の人が苦しんでいます。仏は、それらをすべて救いたいと誓い願うのです。これが大乗仏教の菩薩行の心です。
 私たちも、少しでも仏陀の悟りに近づくと共に、世の中のすべての人が幸せであれかしとの思いを込めて「四誓」を唱え、努めたいものです。

     四弘誓願(しぐせいがん)
   衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
   煩悩無数誓願断(ぼんのうむしゅせいがんだん)
   法門無尽誓願知(ほうもんむじんせいがんち)
   仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
     南無妙法蓮華経(三唱)

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執われの心                                   平成21年7月10日
  「智者と思しき人は偏執かぎりなし」(『隋自意御書』)とは、日蓮聖人のことばです。
     日蓮聖人のことば
仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱え奉るべきものなり
【法華初心成仏抄】
 「偏執」とは、《一つの見解を固執して、他の見解・教えを顧みないこと》(『仏教語大辞典』)とありますから、「知恵のあると思われる人ほど自説にこだわって偏った見方に固執してしまうものだ」という意味になります。
         ◇
 最近、「足利事件再審決定」のニュースが大きく報じられました。足利事件とは、今から十一年前に起きた幼女の誘拐殺人事件です。事件の一年半後に、幼稚園バス運転手のSさんが警察に突如連行され、その日のうちに自白して逮捕されました。
 その後、Sさんは否認に転じ無実を訴えます。しかし、幼女の下着についていた体液のDNA鑑定の結果がSさんのものと一致したということがほぼ決め手となって、最高裁まで争いますが無期懲役刑が確定します。
         ◇
 では、Sさんはやってもいないことをなぜ自白してしまったのでしょうか。そこには取調官の刑事のプロとしての技術があるのです。今の取り調べは、かつてのように暴力は用いないようですが、間違いなく犯人だと目星をつけた人間には、密室の中で長時間に亘り何人もの刑事が取り囲み、人間の心の弱さをうまくついて自白に追い込む技術が進んでいるとのことです。
 自白してしまった心境をSさんは「しゃべっちゃったんです、つい…。なにもやっていないのにすごく悔しかった。でも、裁判になれば裁判官は立派な人たちだから、必ず自分の無実を見抜いてくれると思った。」と言っています。
 当時のDNA鑑定は今ほど精度が高くなく、しかもサンプル採取の仕方も厳密ではなかったようですが、最先端の鑑定法という錦の御旗に取調官の刑事は絶対間違いないと確信したのでしょう。それに「やってなければ自白するはずがない。」という思い込みが加わって、検事・裁判官や第一審の弁護士までもが信じてしまい、よく調べれば矛盾が見つかるはずの「自白の検証」を怠ったということになります。
         ◇
 思い込み捜査といえば、第一通報者の河野義行さんが警察に犯人と決め付けられ、ほぼ一年近くに亘ってひどい人権侵害を受けた松本サリン事件がその典型でしょう。
 その時のことを河野さんは「家族四人がサリンを吸って救急車で運ばれ、自分も苦しんでいる中で事情聴取をされ、辛くて肘を付いていると『姿勢を正せ』と怒鳴られ『本当のことを言ってください』とはじめから犯罪者扱いされた」と言っています。
         ◇
 このように、人は一旦間違いないと思い込むとなかなかその思いから離れらないものです。特にベテラン刑事や検事・裁判官・弁護士など、「智者と思しき人」ほどその傾向が強いと思われるのは、正に冒頭の言葉のとおりです。
         ◇
 仏道においては、中道にして柔軟な心が大切と言われます。
従って、「仏の悟りに至るには、思い上がり(我慢)や偏った見方(偏執)にとらわれる心をなくしてただ南無妙法蓮華経とお唱えするのが良いのである」(枠中の言葉)となるのです。

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すべてに価値あり                      平成21年3月1日
 
  法華経のことば
   しょほうじっそう
  諸 法 実 相
 (諸の法は実の相なり)
もろもろのほうはまことのすがたなり
       【方便品第二】
春三月、日差しも温かさを増し、桃・桜・菜の花などの彩り鮮やかな季節です。が、同時に雑草の芽生えてくる季節でもあります。
 雑草と言えば、誰もが「いかに除去するか」という厄介な存在としか考えません。しかし、本来、雑草とは死んだ土地を甦らせるために生えてきたありがたい草なのだそうです。
 硬く冷たく乾いてしまった不毛の土地に、根を下ろして土を砕き、葉を出しその葉が腐って有機物となり、そこに微生物を集め、保温力・保水力を高めて徐々に土を生き返らせる。そして、生き返った土地にはまた別種の雑草が生える。土の変化によって生える種類を次々に変えてどんどん土地を肥沃にしていく、これが雑草の働き・役割とのことです。
          ◇
 厄介で除きたいものと言えば、カビ・ダニ・細菌などの微生物もその部類といえましょう。
 現代社会は、清潔第一をモットーに消毒・滅菌に余念がありません。抗菌グッズを多用し、薬用石鹸で肌を洗い、塩素で滅菌した水を飲み、防腐剤入りのものを食べ、私たちの身体の内外の微生物をどんどん排除しています。
 しかし、微生物はそれぞれに大切な役割を果たしているのだそうです。私たちの体内には百兆個もの腸内細菌がおり、皮膚にも沢山の常在菌を宿しています。そして、それらは免疫力を高めビタミンを作る役割を担い、私たちの体を守っているのです。
 一時騒がれたO157感染の騒ぎも大腸菌を排除しすぎた結果起きたといわれますし、今増えているアトピー性皮膚炎や花粉症なども私たちの過剰な清潔志向と無関係とは言えないようです。
          ◇
 法華経の方便品第二に、
 「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」
  《すべての存在はそのままで真実の相を表しており、仏のみがそれを究め尽くされた》

とあります。仏の到達された真理といえましょう。
 宗教評論家のひろさちや氏は、諸法実相とは「この世に存在するものはすべてそのままで最高の価値を持っているのだ」という意味で、「世間の物差し」で計らずに「仏さまの物差し」で計りなさい、と説明します。
 「味噌もクソも一緒」と言いますが、この言葉には、味噌はよいものでクソは劣るものという価値判断があります。しかし、諸法実相の見方では味噌は味噌そのままで価値があり、クソはクソのままで価値があるのだと考えるのです。
 「世間の物差し」によれば、優等生は良いが劣等性はダメ、足の速いのがよくて遅いのはダメ、金持ちはいいが貧乏はダメとなりますが、劣等生も鈍足や貧乏の人もそのままで平等に最高の価値があると見るのが諸法実相です。
 「一切衆生 悉有仏性」(この世に生あるものはすべて仏性を有する尊い存在である)
も同じ精神を表します。雑草の存在も雑菌の存在もそのままで最高の価値があるのです。
          ◇
わたしと小鳥とすずと
           金子みすゞ

わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやく走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように、
たくさんなうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

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「無限」の可能性 平成20年11月1日
      日蓮聖人のことば
後生には霊山浄土に参りあひまゐらせん。
              【国府尼御前御書】
 法華経の中には、とてつもない長さを表わす時間の単位が出てきます。「三千塵点劫(さんぜんじんでんごう)」もその一つで、大通智勝という仏が入滅されてから現在までの年月といわれます。これは、「劫」の数が「三千塵点」もあるということです。
            ◇
 まず、「劫」とは〈極めて長い時間〉をいいます。どのくらい長いかというと、「一辺の長さが一由旬(ゆじゅん・約7㎞)もある城(立方体)に芥子粒を入れて満杯にし、三年ごとに一粒ずつ取り出していって、その芥子粒がすべて無くなるまでの時間」が一劫とされます(「芥城劫の喩え」)。
 芥子粒といえばゴマ粒よりもさらに小さいものですから、まさに気の遠くなるような長さです。
 「三千塵点」という数についても突拍子もないたとえで説明されていますが、ここでは省略して大まかにいうと、宇宙全体の星を微塵にすりつぶして粉にしたその粉の数ほどともいえましょうか。これだけで想像を絶する数になりますが、それだけの数の劫ということですから、ほとんど「無限・永遠」の概念を実感させる比喩といえましょう。

 しかし、「無限・永遠」とはさらに壮大であって、この「三千塵点劫」でさえも、これが有限である限り無限の前にはゼロに等しくなってしまう。無限とはそれほど果てしのない概念なのです。
          ◇
 ところで、以前にこんなことを本で読んだ覚えがあります。それは「ピアノの鍵盤を、猿が一万年間メチャクチャに叩き続けたとしたら、必ずその一部分には素晴らしい名曲が含まれるに違いない。」というものです。
 この話は、長い時間とは何でも生み出す可能性を秘めていることを教えているように思います。これを無限という単位の時間で考えた場合、一度起きたことは充分二度起きる可能性を示すものといえましょう。そして、二度起きるということは無数に繰り返すということです。ビッグバンにより宇宙が生じ、やがてそれが壊れる、こうしたことも無数に繰り返すのです(仏教の「四劫」の教え)。
 そう考えると、無限とは今生きている私たちが再び生まれ変わる可能性をも内包しているといえないでしょうか。
            ◇
 宗教とは、心の平和、仏教で言う「安心・アンジン」の境地を目指すもので、いろいろな悩み・苦しみをどう解決するか、その仕方を示すものだと思います。悩み・苦しみの中でも、究極のテーマは、「死の恐れをどう乗り超えるか?」ということでしょう。
 日蓮聖人は、弟子への手紙で
 「死後にはみ仏のおられる浄土に参ってまたお会いしましょう」(枠中の言葉・私訳)
といっておられます。
 このように、あの世の存在を信じ、浄土に往詣できるように日々精進する生き方、これが仏教徒のあるべき姿です。そこに大きな安心感が生まれます。
 ただ、あの世の存在など信じられないという人もいると思います。そういう人にとっては、「無限とは再び生まれ変わる可能性をも内包する」と思うことが、救いになるのではないでしょうか。
            ◇
 無限とは、その果てしのなさのゆえに、いろいろな想像を掻き立たせてくれる面白い概念と言えましょう。

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暗闇の復権 平成20年7月10日
 「光陰」という言葉があります。太陽と月、即ち、昼と夜のことで、歳月はその交互の繰り返しにより時を刻むということになります。
     法華経のことば
  にょにちがっこうみょう  のうじょしょゆうみょう
  如日月光明  能除諸幽冥
  しにんぎょうせけん  のうめつしゅじょうあん
  斯人行世間  能滅衆生闇
          【如来神力品第二十一】

 明るい昼の陽光の下で活動し、暗い夜の闇に心身を休める、光と陰の恩恵をバランスよく受ける、これが私たちの太古からの生活スタイルでした。
 最近の研究によると、生物には体内時計が埋め込まれていて、そのリズムに従って生活することが、無病息災に繋がることが分かったそうです。朝の光を浴び、朝の食事をきちんと摂ることも体内時計を機能させるのに重要なことが実証されています。
 これが自然の摂理に叶った生き方ということです。
        ◇
 現代は、この摂理に反した時代といえましょう。
 コンビニエンスストア、レンタルビデオ店など深夜営業の店が立ち並び、夜の闇の領域が急速に狭まってきています。思えば、近代化とは闇をいかに克服するかという方向で進められてきたともいえます。テレビの深夜放送・会社の三交代勤務制など、社会全体がそのような仕組みの中で機能しているのです。
 その結果、今や中学三年生の半数が、夜中の零時にはまだ起きているそうですし、四歳の子供の半数は就寝時刻が午後十時をまわるとの調査結果も出されています。
 JR山手線では、夜の十時頃に塾帰りらしい小学生がサンドイッチを食べゲーム機を叩いている姿が見られると新聞にありました。
 すべて異常であるべき光景が当たり前のようになっていることに怖さを感じます。
 このような生活様式が、自律神経のバランスを崩し、不眠やアレルギー疾患などさまざまな病気の原因となり、社会的な問題行動にも大いに関係しているように思います。
 「夜の帳(とばり)」が下りると「夜の黙(しじま)」に包まれるというように、夜は暗く静かなることを以って特質とします。出来るだけその特質を生かす方向に舵を切り替えること、いわば「暗闇の復権」といえますが、これこそ、現代の諸の問題を解決に導くキーワードになるのではないでしょうか。
       ◇
 法華経・如来神力品に、次のような言葉があります。
 「日月の光明の能く諸の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く、斯(こ)の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す。」(枠中の語・訓読)
 日や月の光明が、あらゆる闇を消滅させるように、法華経を正しく説く人は、世間にその教えを説き広めることによって、衆生の迷いの闇を消滅させることが出来る。(私訳)
 同じ闇でも、ここでいう「闇」とは、比喩表現で、衆生を迷わせ正しい判断を妨げる煩悩のことです。従って、こちらの闇は是非とも消滅させなければならないものです。
 法華経を正しく学ぶことによってそれが実現できると説いているのです。
  
       ※この句は法華経の中でもよく知られる一句です。意味を理解し、出来れば暗誦しましょう。


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花祭に因んで 平成20年3月10日
     釈尊のことば
 
奇なるかな。奇なるかな。
一切衆生ことごとくみな、如来の智慧、
徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを
以ての故に証得せず。
    【出典・不詳】

ーリンゴが木から落ちた。この時、彼は空を見上げた。イギリスの田舎の昼間の空には青い半月がかかっていた。彼は考えた。なぜ、月はリンゴのように引力に引かれて地上へ落ちてこないのか。ー
 ニュートンの引力の理論が、ここから生み出されたのは有名な話です。この優雅な天体力学の理論によって、天空は人知の及ぶところとなったのです。彼の偉大さは次のように詩に詠まれています。
自然と自然の法則は闇の中に隠されている。
ニュートンよ、来たれ、と神が告げた。するとすべてが明るみに出た。
      ◇
 対して、宇宙の実相の法則は、お釈迦様によって闇から明るみに出されました。
 不思議なことよ!不思議なことよ!生きとし生ける者は皆、仏の智慧と徳のすがたを備えもっていたのだ。ただ、妄想やとらわれの心などの煩悩があるために、そのことに気付かずにいるのだ。(枠中の語・私訳)   
 菩提樹の下で正覚を求めて瞑想に入って七日目、明けの明星が東天に輝き始めたその刹那、この世を貫く真理を究めて、お釈迦様は悟りを得られました。これは、その時に発せられたことばといわれます。【右図:釈尊成道図】
      ◇
 「奇なるかな!」には、眼前に展開する世界が、今までとは打って変わった新鮮な生き生きとしたものに映っている驚き・喜びの気持ちがこめられています。
 仏になった目から見ると、今まで住んできたこの世界の真の姿が、ありありと見えてきます。
 けだものや草木までもが、私たちと同じ仏性を持った親しい存在なのだということ、悪い・愚かだ・ずる賢いなどと言われる人もそれぞれその奥底にはキラキラとした仏性を備えているのであり、今はそれが迷い・執着などの煩悩のために覆い隠されているだけなのだ、ということも手に取るように分かるのです。
      ◇
 悟りに達したお釈迦様は考えます。
 今この広い世界でも、この限りなく深く尊い道理を知っているものはただ私一人である。そして、外界を見れば迷いや執着によって多くの衆生が悩み苦しんでいる。この悩み・苦しみを除いてやれるのは、私の教えしかない。それでは、私がこれら衆生を幸せにしてやろう…。
 お釈迦様が、誕生された時に詠まれたといわれる「誕生偈」、
天上天下 唯我独尊 
三界皆苦 我当度之

       天上天下に 唯我のみ独り尊し
       三界は皆苦なり 
       我まさに之を度すべし
は、まさにこの気持ちを詠んだものです。
      ◇
 四月八日は、釈尊降誕会(花祭)です。誕生仏に甘茶を灌 いでご参拝ください。

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合掌のこころ 平成19年11月1日
 東南アジアのタイを旅行してきた若い女性の話です。
    法華経のことば
 一心合掌 瞻仰世尊
 一心に合掌し、世尊を瞻仰(せんごう)す
       【法華経授記品第六】他
 「タイの人は、挨拶につけ、お礼につけ、何かにつけて合掌する。最初はもの珍しく見ていたが、次第に〝感染〟してしまって、いつのまにか自分も自然に合掌していた。そして、慣れるととても気持ちがいいものだと感激してしまった。」ということでした。
           ◇
 合掌とは、左右の掌を合わせることです。手のひらをまっすぐに伸ばして胸の前で合わせ、指先を四十五度の角度で前方に傾ける形を堅実心合掌といい、これが合掌の基本形となります。(図:合掌印の多宝如来)
 そして、この形をとってみると分かりますが、人はとても落ち着いた気分になります。
 それは、掌は〈たなごごろ=手の心〉といわれるように心を宿していて、単なる手ではなく心を合わせると考えられるからでしょう。そういえば、「手当て」をして病を癒すなど、手には不思議な鎮めの力もあるようです。
 インドの人は大昔からそういうことを経験的に知っていて、仏様を敬うのにふさわしい形として定着させたものと思われます。
          ◇
 このように、合掌はインドで形作られました。
 インドには、右手を清浄、左手を不浄とする考え方があり、そこから、右手は仏様を、左手は衆生を表わすとの見方が生まれます。すると、合掌するということは、右手の仏様と左手の衆生とが合体した姿、即ち、仏様に抱かれた成仏の相とも考えられます。そこから安心感が生まれるともいえましょう。
 古歌にも、
  右ほとけ、左衆生と合わす手の中ぞゆかしき南無の一声
と詠まれ、「合わせた掌の中に『南無』(仏様にすべておまかせします)という気持ちが自然に湧いてくるものだ」と示されています。
           ◇
 法華経の中には、
 「一心合掌 瞻仰世尊」
  一心に合掌し、世尊を仰(あお)ぎ瞻(み)る(枠中の語・訳)
という語句が五箇所に見られます。そして、合掌ということばは四十六回出てきますが、その大部分が仏様に対して用いられています。
 ここからも、合掌とは仏様のような尊い対象物を敬う際になされる行為ということが分かります。
          ◇
 それでは、冒頭の話のように、東南アジアの仏教圏において、人間同士がお互いに合掌し合っているのはなぜなのでしょうか。
 それは、
  一切衆生 悉有仏性
といわれるように、私たちには、だれにも仏性 (=仏様になる種)が宿されている、したがって、だれもが尊い存在なのだという考えに基づきます。
 自分の中にも仏性があるのだということを自覚することは、とても大切なことだと思います。そのことを本当に自覚できれば、当然自分を大切に思う心が生じ、それは、他の人々を尊重する心に繋がるはずです。
          ◇
 私たちも、合掌の心をもって人と接したいものです。

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「人生は苦」か? 平成19年7月10日
 
      日蓮聖人のことば
苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、
苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙
法蓮華経とうち唱へゐさせ給へ。
これあに自受法楽にあらずや。
       【四條金吾殿御返事】
 お釈迦様は「人生の本質は、苦」だとおっしゃったそうです。昔からお祭り好きだった僕には本当に解せない言葉です。「人生が苦」だなんて夢も何にもない・・。なんでそんなこと言うんでしょう!(怒)。
 右は、インターネットのブログで見かけたことばです。
          ◇
 一切皆苦・四苦八苦と、確かに仏教では、人生の実相は苦であると説きます。老いること、病むこと、死ぬこと、また、愛する人と別れなければならないこと、嫌な人とも顔を合わせねばならないこと、…など、人が生きる中で、苦しみは尽きずに生じます。
 しかし、ブログにあるように、楽しいことがたくさんあるのも事実です。人生には苦しみもあるが、楽しいことのほうが多いと思っている人も多いのではないでしょうか。
         ◇
 それでは、仏教ではなぜ「人生は苦」と、説くのでしょうか。
 実は、「苦」ということばの翻訳に問題があるようです。パーリ語の経典を中国語に訳す時に、「duhkha(ドゥッカ)」という語が「苦」と訳されたのですが、「ドゥッカ」には苦という意味はないとのことです。
 「ドゥッカ」とは、「思い通りにはならない」という意味です。私たちは、思い通りにならないことを、何とか思いどおりにしたいと思い苦しみます。そこで、「苦」という訳になったのでしょう。
 「人生は苦」を「人生は思い通りにはならないもの」と言い替えれば、納得がいくのではないでしょうか。
        ◇
 確かに、そういえば、老いることも、病むことも、死ぬことも、また、私たちの容貌にしても、背丈にしても、肌色にしても、運動能力や知能にしても、親・兄弟を選べないで生まれてくることにしても、人生は思い通りにはならないことだらけです。
 思い通りにはならないことを、思い通りにしたいという欲望が生じたときに、人は苦を感じます。つまり、苦の原因は、欲望ということになります。
       ◇
 釈尊が菩提樹の下で悟りを開かれた後、最初に説かれたのは、「苦」からの脱し方(四諦=四つの真理)でした。その第三・滅諦(苦の原因をなくすることの真理)で、欲望(原因)をなくすれば、苦(結果)もなくなると説かれています。
 つまり、どうにもならないことは欲しない、仕方がないと諦めるということです。
 「諦める」とは、本来「明らめる」(ものごとの本質を明らかにする)という意味で、本質が明らかになれば、私たちは納得して従う(=諦める)以外にないということになるのです。
      ◇
 日蓮聖人は、弟子宛の書簡で迫害に遭った時の心構えを次のように示しておられます。
 「苦は苦と悟り、楽は楽と受け止め、人生においては苦も楽も共に当たり前のことと思って、すべては仏様にお任せし、南無妙法蓮華経と唱えておいでなさい。これがまさに覚りによる法悦というものです。」(枠中のことば・私訳)
 このような受け止め方が大切といえましょう。

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彼 岸 の 修 行 平成19年3月10日
 奈良時代、東大寺を建立するなど仏教に信仰の篤かった聖武天皇が、僧の珍海に尋ねました。
   日蓮聖人のことば
 彼岸一日の小善は能く大菩提
 に至る         
             【彼岸抄】

 「受けがたき人間としての生を受け、遭いがたき仏法に出遭えてこれ以上の幸せはない。願わくは、天下万民にも同じく仏縁を結ばせてやりたいと思うがどうしたらよいだろうか。」
 珍海が答えて言うには、「春の二月(陰暦・現三月)と秋の八月(同九月)は気候も温暖で、農作業等も閑なときと思われます。この春秋二期を選んで仏道修行をさせたら、いかがでしょう。」
 天皇はたいへん喜ばれ、「春と秋との各七日間ずつ、仏道修行を怠らず励むように。」と万民に奨められました。
 これが〈お彼岸〉の起こりといわれます。(出典不詳・異説あり)
                    ◇
 彼岸の中日、太陽は真東から昇り、真西に沈みます。当たり前のようですが、よく考えるとこの天体の運行の規則正しさはすばらしく、神秘的でさえあります。
 農耕民族である私たちの祖先は、この自然の神秘に心打たれ、太陽の無上の恵みに感謝する心を育んできたと思われます。太陽に手を合わせる「日オガミ」が訛って「日ガミ」となり、仏教語のヒガンと合体したとのことです。
 このように、〈お彼岸〉は仏教思想と日本人の自然観とがあいまって、インド・中国にはない、日本独自の行事となっています。
                    ◇
 「彼岸」とは、「川の向こう岸」の意で、川のはるか向うは遠くかすんで汚いものは見えないところから、「苦しみを超えた悟りの理想世界」を意味します。
 〈お彼岸〉は、修行によって、その悟りの世界に到ることを目指す期間です。そして、その修行の方法として六波羅蜜という六つの徳目があげられ、中日を境にして前後に三つずつ配されています。
 私たちは、普段、仏教とは疎遠な生活を送り、仏道修行などというと堅苦しく、取り付きにくいものと思いがちですが、次に挙げるようなことも立派な仏道修行になります。この機会に六波羅蜜の実践に取り組んでみてはいかがでしょう。
第一日目は、布施 (与える)。
 募金への協力や、ボランティア、人に笑顔で接する和願施などを試みましょう。
第二日は、持戒(守る)。
 酒量を控えたり、禁煙などに取り組んではどうでしょうか。
第三日は、忍辱(耐える)。
 この日は、寛容の心で相手を許し、怒りをおさえましょう。
第四日は、中日です。ご先祖様に感謝し、お墓に詣でましょう。
第五日は、精進(はげむ)。
 早起きを心掛けたり、良い習慣を続けるように努力しましょう。
第六日は、禅定(瞑想する)。
 たまには、テレビを切り静かに瞑想する時を持ちましょう。
第七日は、智慧(目覚める)。
 物事の本質を見極める目を養いましょう。難しいことですが。
                    ◇
 日蓮聖人は、「彼岸中の一日に小さな善行を実践すれば、悟りの境地に至ることができる。」(枠中の語)と書いておられます。
 六波羅蜜すべての実践は大変としても、この中の一つにでも挑戦し、それを日常の習慣としていけば、必ず大菩提に至ることが出来ましょう。

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いじめを考える 平成18年11月1日
 日本海軍は奇妙な記録の保持者で、みずから爆沈した軍艦が五隻もあり、これは世界有数なのだそうです。
   釈尊のことば

  天上天下 唯我独尊  

        (『大唐西域記 』他)

 その中の一つ「戦艦・三笠」は、戦いの勝利に浮かれた兵士が火薬庫の中で宴会をしたためと判明しましたが、他の一艦は「人為的放火の疑い濃厚」と判定され、他の三艦の爆沈の原因も明らかになっていません。そしてこれについては、「日本の艦はよく爆沈するが、少なくとも半数は制裁のひどさに対する水兵の道連れ自殺という噂が絶えない。」といわれています。(丸谷才一「袖のボタン」より・朝日 新聞、平成一八・二・七)
旧日本軍においては、初年兵を殴り、蹴るなど、ひどい私的制裁が横行していました。そして、このような制裁が究極に及んだとき、被害者は艦から逃げようがなく自殺を選ぶしかなかったということでしょう。
           ◇
 このようなことを書いたのは、最近また「いじめ」による子どもの自殺が連日報道されているからです。
軍隊において、いじめとは、徴兵制度によって否応なく自由を奪われた者の憂さ晴らし的行為であったといわれます。
 このように、厳格な規律や上下関係によって規制される閉鎖的な社会であるほど、そのストレスのはけ口としていじめが起き易いといえましょう。
 今の子どもの社会においても競争主義、成績第一主義などによるストレスが影響しているのでしょうか。
            ◇
 「天上天下 唯我独尊」
 これは、お釈迦様が誕生された時、発せられたことば「誕生偈」として知られます。
この世の中で私の説く仏の教えのみが、衆生を苦界から救うことの出来る唯一の尊い教えなのである。
 という意味で、お釈迦様の、ご自分の説かれた教えに対する自信のほどを示されたものと、私は解釈します。
一方、一般に
この世の中において、自分という存在は、たった一人しかいない かけがえのない尊い存在なのだ。
という意味とも言われます。
            ◇
 いじめや自殺の防止を考える時には、この一般の解釈が大切な視点になるかと思われます。
 自分という存在のかけがえのなさ・愛しさを徹底して知ること、それによって、誰もがそれぞれに自分自身を愛しく大切と思っていることに思いが及ぶのではないでしょうか。
 釈尊のことばには
おのれの愛しいことを知るものは、他のものを害してはならぬ
ともあります。
            ◇
 また、自殺防止という観点から言えば、自分という存在をかけがえのないものと思ってくれている家族や周囲の人が沢山いることを認識することが大切です。
 「自殺も考えたことがあるけど、泣き崩れるお母さんのことを考えたらとてもそんなことは出来ないと思った。」というある生徒のことばがそれを物語っています。
           ◇
 いじめられる人がどんなに辛いか、自分の死によって家族がどんなに悲しむか、つまるところは、「他人の立場に立って考える心」「他を思い遣る心」を養い育てることが大切ということかと思います。

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江戸の商法を見直す 平成18年7月10日
  釈尊のことば
 不染世間法 如蓮華在水
 世間の法に染まざること蓮華
 の水に在るが如し

【法華経 従地涌出品 第十五】
 江戸時代には、「お金儲けは賎しいこと」、「お金のことを口にするのは恥ずかしいこと」という感覚がありました。これは、「武士が殿様に仕えるのは決してお金のためではない」という侍の美学に基づくといわれます。
 それが庶民階級に伝播して「江戸っ子は宵越しの金は持たない」という金を貯めるのを潔しとしない風潮や、「士農工商」というように、ものを右から左に動かすだけでお金を儲ける商人を最下層に置く考え方につながっていると思われます。
 しかし、実際に江戸で成功した商人は高い倫理性を有していた人が多く、「先義後利栄」(義を先にし利を後にすれば栄える)のように、利潤追求よりも社会貢献を優先する方針であったといわれます。
 大丸の創業者もこの方針を貫いていたために、天保の大塩平八郎の乱の時には「大丸は義商なり。これを侵すなかれ。」と焼き討ちを免れたとのことです。
          ◇
 ところで、「村上ファンド」を立ち上げ莫大なお金を稼いだ村上世彰氏は、逮捕される直前の会見で「お金もうけは悪いことですか。僕はルールを侵してしまったかもしれない。でも、ルールの中で一生懸命株取引をして儲けていることの何が悪いんだろう。」という内容の発言をしています。
 論理的にはその通りかもしれません。それにもかかわらず、世間の批判を浴び、嫌われ者の扱いを受けているのはなぜでしょうか。
 思うに、単に儲けることだけを目的としていること、そして、その手法が額に汗することのない株の売買による所得であることなどが挙げられるでしょう。
 それ故、日本人の、江戸以来意識の底流にある金銭への感覚が、いわゆる「村上的なもの」を受け入れないのだと思います。
          ◇
 江戸期には、「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)という経営方針もあって、常に相手を思い、世間全体のことを思っての商いを理想としていたといわれます。仏教や儒教思想を背景とした共存共栄の考えに基づくものです。
 これに対し、村上氏に代表される最近の経済活動は米国流のやり方ともいえましょう。そして、現在は株取引に限らず米国流が巷に溢れつつあります。
 スーパーやコンビニなどのような店が増えて、効率化を求めるあまり機械的な応対が横行し、顧客の立場に立った商いが隅に追いやられようとしています。
          ◇
 法華経の従地涌出品には
 「世間の法に染まざること蓮華の水にあるが如し」とあります。
 世の中の悪しき流れに流されず、ちょうど蓮の花が泥田の中から芽を出してもその汚れに染まらず清らかな花を咲かせるような、人としての理想の生き方を示したものです。 
 現在のあまりにも効率化した日本の社会の風潮の中で、江戸以来の良き習慣を、もう一度見つめ直してみることも必要なのではないでしょうか。

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企業人の志 平成18年3月10日
 今年の一月半ば、ホリエモンの愛称で親しまれた堀江貴文ライブドア社長が、粉飾決算等の容疑で逮捕されました。
   日蓮聖人の言葉
仏教の四恩とは、(中略)三に
は、一切衆生の恩を報ぜよ。
【上野殿ご消息】

 彼は、一昨年のプロ野球球団の買収騒ぎで一躍有名になり、気取らぬTシャツ姿で既成の価値に挑戦する言動は、若者をはじめ多くの人に支持され、 企業の成功者として多くの信奉者を持ちました。

 しかし、ライブドアという会社の経営実態は、本来の事業では儲けのない虚業であり、いわば「偽札を刷ってきた」に等しい行為だったといわれます。
 つまり、この会社は金を儲けることのみが目的で、社会に貢献する「公」という視点がまったく欠けていたといえましょう。
        ◇
 わが国は、かつて「滅私奉公」の掛け声の下、「公」のまえに「私」を犠牲にすることを強いてきたことにより、もう「公」はコリゴリだという気持ちが戦後の人々の心を支配し、それが昂じて「自分さえよければ」という「利己主義」が横行してきました。
 雪印乳業の偽ラベル事件、三菱自動車の数度にわたる構造欠陥隠し、最近の建築設計偽装、などもその例といえます。
        ◇
 日蓮聖人の御書の中に、「一切衆生の恩を報ぜよ。」とあります。
 恩とは「めぐみ」の意(「漢字源」)とありますが、思うに私たちは大自然やあらゆる生きとし生けるものから多くのめぐみ(恩恵)を受けて、恩の中に生かされているともいえます。
 一切衆生の恩とはこのことで、社会の健全な発展に貢献することがその恩に報いるということと思います。
 だれもがそのことに思いを馳せて、恩を感じ恩に報いる心を持つことで、私たちの社会はより健全で豊かで温かみのあるものになるといえましょう。
        ◇
 このような視点から企業人を見ると、京セラの創業者・稲盛和夫氏は、「経営の本質とは、社会から預かった人・金・物・情報などの経営資源を活かして、その成果を社会に還元することである。」と書いています。
 また、新しい事業を展開する際には、「動機善なりや、私心なかりしか」と、何度も自分に問いかけるそうです。京セラを創業する時も、第二電々(KDDI)を作るときもこの精神は貫かれました。  
 先日亡くなったヤマト運輸の元社長・小倉昌男氏は起業家を目指す若者に向けて、
 「まず、志を高く持ちなさいということを言いたい。志の低い人は、ダメです。また人間的にも優れていないといけない。人格・品格の無い人に起業は無理です。」と説き、自身でも私財 24億円を投じてヤマト福祉財団を設立、障害者の自立支援に貢献しました。
 また、任天堂の元社長山内溥氏は、京大附属病院に「大学病院の使命にふさわしい病棟を建設してほしい」と約 70億円の個人資産を寄附したと最近報じられました。
        ◇
 企業家として優れたこれらの方々は、企業を通して社会に貢献するという姿勢が自然と貫かれており、結果的にその企業も発展しているのです。

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祈りの力 平成17年11月1日
 
    日蓮聖人のことば
 疾く疾く利生をさづけ給へと
強盛に申すならば、いかでか
祈りのかなはざるべき。

           【祈祷抄】
当山では、毎年冬至の日に「星祭」を行っています。星祭とは、妙見菩薩をお祀りし、来る年の各家の家内安全と各人の除災得幸を祈念する行事です。
 そして、妙見菩薩とは、北辰妙見菩薩の別名があるように、北極星を神格化したもので、天上から人間の所業を見てその人の延寿・禍福を司るといわれています。
 毎回、「新しい年が災いのない良い年でありますように」と念じる多く方に参列いただき、盛大な行事となっていることはありがたいことです。
           ◇
 二十一世紀になり科学や医学などが飛躍的な発展を遂げ、あらゆる自然の現象がすべて解明され、やがて自然の征服も夢ではないかのように思われます。
 しかし、人の知がどんなに進んだように見えても、宇宙の無限という観点からすると未知の領域はぜんぜん狭まってはいないといえましょう。
          ◇
 私たちの属する銀河系には二千億個の星があり、宇宙には一千億の銀河、幾億兆もの星があって、一定のスピードで大移動しています。
 そんな中で、地球は宇宙の中ではごく平凡な星の一つである太陽の惑星として、その周りを回り、朝と夜が巡ってくるのです。宇宙の運行にほんのわずかでも狂いが生じたら、地球のあらゆる生き物はすべて一瞬のうちに死に絶えてしまうでしょう。
 大自然の前では、人の力など取るに足りない存在なのです。
          ◇
 ましてや、人の運命ということを考えた場合、これは人の力ではどうしようもありません。いま幸福の絶頂にあったとしても、次の瞬間にどんな不幸な情報がもたらされるかはだれにも予測できないことです。
 運命がどうにもならない以上、人は祈ることによって心の安定を得るほかはありません。
 そう考えると「人の祈り」が無くなることはないといえましょう。
          ◇
 日蓮聖人は、「早く願いをお聞き届けくださいと強い心でお祈りすれば、必ず祈りは叶うはずだ。」(枠中の語、私訳)と書いておられます。

 「祈り」の効果については、興味ある実験結果があります。
 アメリカの心臓病の入院患者約四百人を「祈ってもらうグループ」と「祈ってもらわないグループ」にわけ、患者にはそのことを一切伝えないで祈りの実験をしました。その結果は、「祈ってもらうグループ」に明らかに病状の好転が見られた、ということです。
 これは、人のみならず、ライ麦の種子に対する実験でも同じで、祈った種子のほうが発芽率が高かったそうです。
(福島大学助教授・飯田史彦著「生きがいの本質」)
 これによると、祈りとは、単なる気休めではなく明らかに効力を有する行為であるということになります。

 「今出来ることは祈ることだけ」という事態に私たちはしばしば直面しますが、この実験の結果は大きな勇気づけとなるでしょう。

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慈悲の心で 平成17年7月10日
 「お金ではなく、あなたの声を下さい。その声をあらわすホワイトバンドを身につけてください。」というキャンペーンが、世界に広がっています。
   日蓮聖人のことば
 劣れるに逢ふて慈悲あれ
   【上野殿御返事】

 世界には、今でも「とてつもない貧困」の状態にある国がたくさんあります。その貧困ゆえに、「食べるものがない・水が汚い」などで、一日に三万人もの子どもが(三秒に一人の割合で)死んでいるといわれます。募金はもちろん大切ですが、この極端な貧困は、お金だけではどうにもならない段階に来ているのです。何千億円という単位のお金を援助しても、ほとんどが債務の返済に消えてしまい、焼け石に水という状態なのだそうです。
 だから、貧困を生み出している構造を根本から変える〈政策の転換〉をみんなで意思表示をしようというのが、ホワイトバンドを身につけるという運動なのです。
         ◇
 具体的には、①貧しい国の人々が自立できるような、きめ細かい長期的な支援、②悪循環の泥沼状の債務の全額削減、③富める国にお金がどんどん流れ入るような貿易の仕組みの改革、を目指しています。
 ここには、植民地政策などにより、貧しい国をそのような状態に陥れてしまった先進国側にも大きな責任があるとの発想があります。
         ◇
 日蓮聖人の御書に、四徳について触れた部分があり、その四に「劣れるに逢ふて慈悲あれ」(自分より大変な境遇にある人に出逢ったら、救いの手を差しのべなさい。私訳)とあります。
 慈悲とは、「与楽・抜苦」の意味で「仏・菩薩が、衆生のもろもろの苦を放置できずに、安楽を与え、苦を抜除しようとする思いやり。」を意味します。
 大変な境遇の人を前にしたら、少しでも力になろうと思わずにはいられない気持ち、これが慈悲です。
         ◇
 ところで、「とてつもない貧困」というのは、一日三食を取れないことはもちろん、栄養不足のために軽い活動もできず、毎日横になるしか仕方がない状態を言うそうで、そういう人が世界に八億人(世界の十人に一人の割合で)いるといわれます。

 私たちは、大変な境遇の人には、人種・民族の違いを超えて、慈悲の心を以って、手を差しのべあうことが大切です。ホワイトバンド運動(一つ、三百円)等に協力することもささやかな貢献といえましょう。

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臨終の事を習ふ 平成17年3月10日
   日蓮聖人のことば
先ず臨終の事を習ふて
後に他事を習ふべし。

   (「妙法尼御前御返事」)
 「生死不定」ということばがあります。人の寿命は、いつどのように尽きるのか、わからないという意味です。
 先般起きたインド洋の大津波による被災などを想うと、確かにその通りと実感せざるを得ません。私たちがいまどんなに楽しい時間を過ごしていたとしても、次の瞬間に何が起きるかはだれにも分からないのです。
       ◇
 日蓮聖人は、「(この世は定めないものであるから、)先ず何よりも 臨終の際の心構えを作っておいて、それから後に、もろもろの他の生活のことを考えなさい」(枠中のことば・私訳)と言っておられます。
 臨終に当たって心乱れず、浄土への往生を信じて、従容として死を迎えることを「臨終正念」といいます。これは私たちの目指す望ましい最期の境地で、「臨終の事を習ふ」とは、この境地を目指すことともいえると思います。
       ◇
 人は生きてきたように死んでゆくものといわれます。とすると、充実した人生を生きて、はじめて充実した死を迎えることが出来るということになります。それならば、臨終正念の境地に至るには、私たちの一生を充実した、悔いのないものとすることが大切です。
 では、人生を充実したものとするにはどうしたらよいでしょうか。
 その一例として「一日暮らし」という生き方を紹介したいと思います。
       ◇
 「一日暮らし」とは、江戸時代の禅僧の推奨したことばで、「一日を一生と考えて暮らしなさい。」ということです。
 今日一日の人生とすれば、いやが上にも今日一日を大切にせざるを得ないでしょう。そして、一日の積み重ねが一年であり、一生なのですから、一日を充実して送ることは、一年を充実することになり、一生を充実して送ることになるというのです。
  また、どんなに苦しいことがあっても、今日一日のことと思えば耐えやすいし、楽しみもまた、一日と思えばそれに溺れることがなくて済む。また、朝に目を覚ますと新しい人生が始まると思うと、毎日が新鮮に迎えられる。だから、今日一日を大切に、というのです。
       ◇
 森鴎外も同様の発想のことを書いています。
 「日本人は小学校の門をくぐると、一生懸命に駆け抜けようとする。その先に生活があると思う。職業に就くと、一生懸命に働き抜き、その先に生活があると思う。が、その先に生活はない。現在の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。」(小説「青年」・部分要約)。
       ◇
 考えてみると、確かに明日どうなるかはだれにも分からないのですから、今日現在の暮らしを大切にすることが何よりも肝要と思われます。

 ― 一大事と申すは、今日只今の心なり ―

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「立正安国」の教え 平成16年11月1日
  災難に逢ふ時節には、災難に逢ふがよく候。
  …是ハこれ災難をのかるゝ妙法にて候。 ー良寛ー
     日蓮聖人のことば
 浄土と云い穢土(えど)というも
土に二つの隔て無し。只我らが
心の善悪によると見えたり。

          (「一生成仏抄」)

 右は、文政十一年(一八二八)の新潟三条地震(死者八千人)の時に、お見舞いをくれた友人への良寛さんのことばです。
 「自然の災害は避けようがなく、遭ってしまったらこれは仕方がないと早く諦める。それが災難のダメージを最小に抑える最善の方法だ」(私見)ということで禅僧らしい諦観がうかがえます。
          ◇
 十月二十三日に起きた新潟県中越地震では、各所で大規模ながけ崩れや洪水などが起こり、その後も余震が続く中、多くの人が避難生活を強いられています。
 そんな中、ある女性の「泣いて過ごしても笑って過ごしても一日は一日。くよくよしないでやりますよ。」という言葉に、良寛さんに通じる新潟人らしい強さを感じました。
 しかし、六月の洪水に続いて再び災害に見舞われた地域もあり、人々の疲労困憊度は極限に近いものと思われます。
 そのような中、全国各地からたくさんのボランティアが駆けつけ、汚泥の片付けに、送られてきた大量の物資の仕分けにと活動している様を見ると心強い限りです。
 疲労が極限に達しているような中では、他人の親切は本当に身にしみてありがたく感じるものであり、遠くから見守るしかない私たちもホッとさせられます。
 この他、各種団体が義援金集めに速やかに取り掛かるなど、災害に対する支援体制が近年とみに整ってきたように思われます。
          ◇
 ところで、私たちの住むこの世界を、苦しみや悩みに満ちた「穢土」と考え、この穢土を離れて安らかな仏の国「浄土」に生まれ変わることを願うのが往生思想です。これによれば、「浄土」とは死後に赴くところとなります。
 一方、日蓮聖人のお言葉によれば、「浄土」といい「穢土」とはいっても、それらは別の世界ではなくて、同じこの社会のことであり、そこに住む私たちの心の持ち方・生き方(善悪)によって、この社会が浄土とも穢土ともなるというのです。
 そして、仏の正しい教えを正しく実践することによって、この世界を住みやすい「浄土」と化することが、日蓮聖人の説かれた「立正安国」の教えなのです。
          ◇
 法華経の教えに、菩薩行が説かれています。菩薩行とは、自らは仏の悟りを求めて修行に励むかたわら、苦しみ悩む衆生に救いの手を差しのべる生き方をすることで、布施行もその実践の一つになります。布施とは、金銭でも物でも、言葉でのアドバイスでも体を使っての奉仕でも、何でも自分にできる施しを行って、特に見返りを求めない行為です。
 ボランティア活動はまさしく人々の善の心による、何の見返りも求めない奉仕行為であり、布施行といえましょう。このような活動の輪がますます広がって、安らかな暮らしやすい世の中の実現を目指したいものです。

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仏性を育てる 平成16年7月10日
 今年のゴールデンウィーク明けの新聞の社会面に、「六年前のGW強盗は私です」という見出しのニュースが
釈尊のことば
一切衆生 悉有仏性
いっさいしゅじょうしつうぶっしょう
(一切衆生悉く仏性有り)
〔涅槃経
・ねはんぎょう
載りました。
 記事によると、自首したのはA容疑者で、彼は六年前の五月五日の朝、ある町の事務所に押し入り、事務員を脅して金庫から現金85万円を奪ったことを申し出で、そのまま逮捕されました。
 事件当時パチンコなどで浪費し、消費者金融にかなりの借金があったといい、金に困った末の犯行ということです。
 しかし、「毎年大型連休が来ると事件を思い出し、自責の念が積もった。」、「捜査の手がいつ及ぶかと心の休まる時がなかった。」と供述しているそうです。(朝日新聞五月一二日朝刊)
          ◇
 この記事は、犯罪者の心理状態を良く表しています。一つは罪を犯してしまったという罪悪感、もう一つは、四六時中追われているように思われていつかは捕まるかも知れないという怯えの感情です。まさに「良心の呵責に耐えかねて」ということでしょう。
 良心とは、罪責感や悔恨の意識を生じさせる心の内からの〈呼び声〉です。A容疑者にはこの「良心」が、失われてはいなかったのです。
          ◇
 「一切衆生 悉有仏性」(「涅槃経」)という経文があります。
 「一切衆生悉く仏性有り」と読み、〈命あるものはすべて、仏の本性を備えている、仏になる可能性を宿している〉という意味になります。
 従って、私たちはだれも体内に〈仏になる種を宿している〉ということです。
 このことを信じ、こういう自覚を持つということはとても大切なことと思います。
 何かに失敗し自信をなくしたようなときでも、自分の中にも仏性があるということを思いだせば、それが新たな自信となることもあるはずです。
 また、他の人にも、他の生き物にもすべて同等に仏性があるということを認めればすべての命を大切にという思想につながります。
          ◇
 ただ、仏性という種は、有しているというだけでは単なる種に過ぎません。水をやり肥料をやり、手を掛けることによって花開くのです。
 生理学的にも、人の脳は生まれてから八歳くらいになるまでに約九〇㌫が出来上がるといわれます。従って、八歳になるまでのその子の環境が脳を作ることになります。
 こう考えると、幼い頃からの親や周囲の大人の教育、仏性を育てるということはとても大切なこととなります。そして、この過程を経て、〈良心の呼び声〉も働くようになるのです。
 A容疑者も、きっと幼時のどこかにこのような体験があったのでしょう。
          ◇
 この頃、子供たちが起こす残忍な事件に多くの人が心を痛め、どうしたら無くなるかと困惑しています。仏教のこの考え方はその解決策としても大きなヒントとなるのではないでしょうか。

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不殺生戒について 平成16年3月10日
           日蓮聖人のことば
 
一切の諸戒の始めは、皆不殺生戒なり。
上大聖より下蚊虻に至るまで、命を財と
せざるはなし。これを奪へばまた第一の
重罪なり。
                [妙密上人女房御消息]
     今年一月に山口県の養鶏場で、鳥インフルエンザの発生が確認されて以来、大分県でのチャボへの感染を経て、京都府丹波町の養鶏場で鶏が大量死するに至り、鳥インフルエンザは国内でもさらに広がる恐れが出てきました。
    近年、BSE(牛海綿状脳症)による牛の障害やヘルペス病による鯉の大量死など、食肉に供する生き物に関して問題が次々と生じています。
    これらは、現在の私たちの食生活のあり方に対して重大な警鐘を鳴らしているように思われてなりません。
                                         ◇
    日本の肉の消費量は、この五十年間で十倍に増えているそうです。牛肉などを生産するには、餌としてその十倍の重さの穀物が必要となります。ということは、私たちは、肉を食べることによって五十年前の百倍もの穀物を消費していることになるのです。
    現在、アメリカでは、国民の65 %が「太りすぎ」にあたり、2%(四百万人)が超肥満(健康体重を 45㌔以上オーバー)で、その対策に関する医療費が年間約八兆円にもなるとのことです。
    これも肉食に起因するとすれば、その肉を得るための餌としての穀物の消費、その穀物を生産するための石油の消費など、地球資源を膨大に浪費し、その挙句に病を得ているという、正に末期的症状ともいえましょう。
                                        ◇
    仏教の戒に「不殺生戒」があります。《生き物の命を奪わない》という誓いです。
    ①不殺生(ふせっしょう)戒、②不偸盗(ふちゅうとう)戒、③不邪淫(ふじゃいん)戒、④不妄語(ふもうご)戒、⑤不飲酒(ふおんじゅ)戒を五戒といいますが、他にも十戒・二百五十戒など多くの戒がある中で、上記の日蓮聖人のお言葉にもあるように、「不殺生戒」はいずれの場合もその筆頭に置かれています。あらゆる戒の中で《不殺生》ということは、特に重要な戒であり、だから、これを犯せば重罪に当たるというのです。
    ちなみに、「戒」とは、《してはいけない》という命令ではなく、《しないようにしよう》という誓いです。これを誓願といい、仏教徒は、命令としてではなく自らの誓願として、この戒の遵守を仏様に誓うのです。
    しかし、私たちは生き物の命をいただくことによって自己の命を保っています。不殺生ということを徹底して守ったら、私たちは生きられません。生きるためには殺生せざるを得ない場合もあるのです。
    つまり、「不殺生戒」とは、必要のない殺生は慎むということです。さらに言えば、せっかく命を提供してくれている食材を無駄にしない、さらには、すべてのものを生かして用いようという心です。
                                        ◇
    こう考えると、現在の私たちの食生活はあまりに飽食に傾き、生き物の命をいただいているという感謝の心を忘れているのではないでしょうか。
仏教の教えに「不殺生戒」がある意味を改めて考えてみたいものです。

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貧富の二極化現象に想う 平成15年11月1日
 「お父さん、あのお寿司おいしそうネ。食べたいわネ。でも、八百円もするのよ。ちょっと無理ネ。」
日蓮聖人のことば
人のために火をともせば、
我がまへあきらかなるがごとし。
 〔食物三徳御書〕

 先日夕方、あるスーパーマーケットで耳にした会話です。見ると、マグロの握りずしがパックに詰められて並んでいました。会話の主は七十歳台後半と思われる老夫婦です。
 一般には、「パック詰めの握りずしはどうも」とか、「八百円くらいなら」という感覚が働くところですが、それさえも手が届きかねるというところに生活の窮乏振りが思われ、心痛む思いがした、と買物から帰った家内がしみじみと話していました。
 今、リストラによる路上生活者の増加など、生活に困窮する人が増えているといわれます。
 その一方で、ペットの犬に二千数百万円の衣装やアクセサリーを揃えてやったり、千数百万円もの高額仏壇が着実に売れ続けたりという現実があります。
       ◇
 最近の調査によると、「貯蓄ゼロ」という所帯が22 %という高い水準になる反面、保有する側の資産の平均額も過去最高になったとあります。(毎日新聞九月二十二日号)日本でも、持つ者と持たざるものの二極化が進んでいるのです。
 そして、持つものはその資産を運用し、教育などに投資して、ますます富み、持たざるものは高い教育を受ける機会も得られず、さらに貧しい状態に陥ります。
       ◇
 私たちの社会は多くの人たちが集まって成り立っています。だから、一部の人が満足感を持って暮らしても、不満をもつ多くの人たちが存在する限り、社会の安定は得られません。そして、社会全体が安定しない限り、いかなる人も本当の安定した生活はのぞめないといえます。
 近年の強盗事件などの凶悪事件が増えつつあることは、この貧富の二極化の現象と無関係とは言いがたいように思います。
       ◇
 仏教(特に、法華経)の目指すところは「娑婆即寂光」といって、憂い多いこの社会を住みやすい仏国土にすることです。そしてそれを実現するための実践として「菩薩行」を説きます。「菩薩行」とは、菩薩さまと同じ生き方を目指しなさいと言うことです。
 それでは、菩薩さまの生き方とはどのようなものかと言うと
  上求菩提(じょうぐぼだい) 下化衆生(げけしゅじょう)
   〔上は菩提を求め 下は衆生を化(=教化)す〕
ということばで表されます。
 仏さまの悟りの境地を目指して自己の向上に努めるとともに、悩み苦しむ人々に救いの手をさしのべる、ということです。
 自分だけ幸せであれば良いという気持ちでなく多くの人が幸せになるよう努める。私たち一人一人が、少しでもこのような生き方を心がけ、一日のうちの少しの時間でもその実践に努めることによって、世の中は随分暮らしやすくなるはずです。
 そして、社会全体の暮らしやすさが我が身の暮らしやすさにつながるのです。
       ◇
 上に示した日蓮聖人のお言葉もまさにそのことを表わしています。

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「盲亀浮木」の譬え 平成15年7月10日
     日蓮聖人のことば
鳴呼受け難き人界の生をうけ、
値い難き如来の聖教に値い奉れり。
一眼の亀の浮木の穴にあえるがごとし。
            (聖愚問答抄)
 今日の朝刊一面(七月十日・朝日新聞)は、「十二歳、中一を補導/男児殺害の疑い」という大見出しの記事で占められています。十二歳の中学生が四歳の男児を全裸にして高さ二十メートルの建物の屋上から投げ落としたというものです。
  この生徒に「命の尊さ・重さ」という認識がまったく欠如していることに驚かざるをえません。しかも、この生徒が「成績のよい、ごく普通の子」であるということは、さらに重大な意味を持っています。ごく普通の生徒の中にも、「命の尊さ・重さ」についての認識の低い生徒がかなりいると推定されるからです。そして、最近、一般成人にも同様の感覚の人が少なくないと思わせる事件が多発しています。
 識者によると、これらの人に共通するのは、「自己尊重感」(自分で自分を大切にする気持ち)が薄いということだそうです。 (七月十日・朝日新聞)
        ◇
 一方、最近自殺者が増えているというのも、気になるニュースです。 自ら死を選ぶにはかなりの重大な訳があってのことで、軽々には論じられませんが、若者によるインターネット集団自殺など、動機になかなか理解しがたいものも増えているようです。
        ◇
 そして、これらの殺人や自殺が深刻なのは、その行為によって、関係する家族・友人・職場の仲間などに、目に見えない深く大きな心の傷を残すことです。一つの事件は、その周囲の数十人に大きなトラウマ(心的外傷)を負わせるといわれます。そして、一生それを背負って苦しまなければならない場合も多いのです。
 このように考えると、今の教育で大切なことは、《自分の命のかけがえのなさ》を徹底して教えること。そして、そのことが他人の命の尊重にも繋がるのだと思います。
        ◇
 法華経の巻七に
 「一眼の亀の浮木の穴にあえるがごとし。」(「盲亀浮木」の譬え、という)という譬えが出てきます。
 「大海の底に住む盲目の亀が百年に一度海中から頭を出す。そこへたまたま亀の体が入る大きさの穴のある流木が流れ来る。そして、亀がちょうど偶然にもその浮木の穴に体を差し入れ、太陽の光に体を温めることが出来る。」というめったに無い出来事を表わす譬えです。
「私たちが、今、人間として生を受けていること、そして、法華経の尊い教えに出遭えていることが、奇跡的に難しい確率の上に成り立っているのだ」
ということを教えています。冒頭の日蓮聖人のお言葉も、まさに同じ意味を表わしています。
        ◇
 私達の先祖は、父母二人、祖父母四人という風に五十代(約千五百年)をさかのぼっただけで、なんと千百二十五兆人を超える数になり、その血筋を途絶えることなく受け継いでいることになります。この他にも、無数の条件の累積の結果として、私達は存在するといえます。
 こう見てくると、《私という個人が今ここに存在している》ということは、まさに奇跡的ということになるのです。

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「仏涅槃図」に想う 平成15年3月10日

 今年初め、東京国立博物館において開催された「大日蓮展」は、四十日間に十五万人余の拝観者を集め盛況の内に幕を閉じました。
 今回の催しは、立教開宗七五〇年を記念して、日蓮諸宗より聖人ゆかりの第一級の品々を集め一堂に展示したものです。国宝・重文他、門外不出の秘宝も含めて総数百六十余点もの展示品が揃ったのは、かつて例がなく、今後もなかなか出来ないものと思われます。
 さすがにどの作品も素晴らしく、それぞれのところで足が止まりましたが、一つを挙げるとするとやはり、長谷川等伯筆の「仏涅槃図」です。
     ◇
 涅槃図は釈尊が沙羅双樹の下で涅槃に入る場面を絵にしたもので、釈尊の伝記中でも重要な場面の一つとして、インド・中国などすべての仏教圏で数多く描かれています。いずれも釈尊の徳の偉大さを物語るものといえましょう。
 涅槃とは、「吹き消す」という意味で、「煩悩の火が吹き消された、安らぎ・悟りの境地」を意味しますが、「命の火が吹き消された状態、死去」の意味にも使われます。
    ◇
 釈尊は、八十歳にて、クシナガラの沙羅双樹の木の間で、北を枕に横臥し、最期を迎えます。そして、泣き悲しむ弟子たちに、
   「泣くことはない。仏は亡くなりはしない。仏とは肉体ではなく悟りの智慧である。だから、私の肉体は滅しても、私の教えを学ぶ者は私に対面していることになる。私は、亡き後もお前たちの師として生き続けるであろう。」
と説いて入寂されます。
 日蓮宗でよく読誦する法華経の「自我偈」の中に、
「為度衆生故 方便現涅槃
「仏涅槃図」を拝観する人々。(「大日蓮展」のホームページより転載。) 「仏涅槃図」は、縦 8m、横 5.5mで、重要文化財指定。京都・日蓮宗 本法寺蔵。


而実不滅度 常住此説法」
  衆生を度せんが為の故に方便して涅槃を現ず
  而も実には滅度せず常に此処に住して法を説く
とあります。
 これは「如来が涅槃に入ったのは方便であって、実は如来は常住不変であり、いつもこの世にあって、悟った内容を法として説きつづけている。」ということをいっており、釈尊の最期の言葉とちょうど符合しています。
     ◇
 長谷川等伯筆の「仏涅槃図」は、横臥する釈尊の周りを約百の弟子や菩薩・天竜・動物などが取り囲み嘆き悲しむさまが描かれています。その一人一人、一匹一匹の深い悲しみの心がそれぞれ百様に表現されていて、一流の絵師の描写力のすごさを実感させられると同時に、本物の作品に直に接することの大切さを再認識させられました。

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望ましい生き方 平成14年11月1日
  今年のノーベル賞は、史上初の日本人ダブル受賞となりました。凶悪なテロの多発や出口の見えない不況感漂う暗い世相の中で、久々の明るい話題です。
     法華経のことば
 少 欲 知 足
   欲少なくして足るを知る
      (普賢菩薩勧発品第二十八)

  中でも、ノーベル化学賞に輝いた田中耕一さんは、受賞の意外性とその「変人」と自称するキャラクターとで、依然としてマスコミ等の関心の的となっています。
 
  田中さんの人柄について、「いい人フェロモンむんむんの」という形容が、ありました。背広の替えが少なくデパートで買い増したとか、一つ一つの話題が庶民的で、従来のノーベル賞受賞者のような超一流の〈雲の上の人〉的なところがないことなどにもよりますが、更には、超俗的で無欲のところが共感をもって受け止められているのだと思います。
 
  彼の身分は民間会社の一介の主任に過ぎませんでした。そして、主任にとどまっていたのは、研究を続けるために課長への昇任試験を拒み続けていたからということです。
  人を出し抜いても自己の出世昇進を計ることが多い風潮の中、一服の清涼剤の役割りを果たしています。
         ◇
  法華経(普賢菩薩勧発品第二十八)の中に「少欲知足」という語句があります。
  「少欲」とは、世間的な欲が少ないということで、お金や物だけでなく、地位・名誉・権力などの欲に淡々としているということです。ただし、向上心は旺盛でなければなりません。真理の追求にまで無欲であるのは、単なる怠け者ということです。
  また、「知足」とは、現在の境遇に不満を感じないことです。不満を感じずに、自分の仕事には一所懸命に打ち込める、これが「知足」のあるべき姿です。
  従って、「少欲知足」というと何か消極的な生き方を連想しがちですが、実際には、〈満足感をもって悠々と暮らし、しかし、仕事には最善を尽くす〉という、人としての大変望ましい生き方を示しているといえるでしょう。
  このように見てくると、田中さんの生き方は、まさに「少欲知足」そのものです。
        ◇
  人の欲望=貪欲は、衆生の善心を害する三毒の一つで、根本的な煩悩であるとされています。仏教では、それらの苦を取り除くために、「四諦」(四つの悟り)とか「八正道」(八つの生活を正す道)とかの修行法を示していますが、その境地に達するのはそう簡単ではありません。
        ◇
  しかし、田中さんの現在の姿は、自然にその境地に到達し、その具現化された雰囲気があの「癒し系」といわれるほのぼの感として表われているようにも思えます。
  「人はどう生きるべきか」という人生の根本的な問いに対する一つのお手本となるのではないでしょうか。

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柔軟心(にゅうなんしん)ということ 平成14年7月10日
   日蓮宗のお経・自我偈の中に「質直意柔軟」という句があります。
 法華経のことば
      しち じき い にゅうなん
   質 直 意 柔 軟
      (質直にして意こころ
    柔軟
にゅうなんなり)
        (如来寿量品第十六)

「飾り気がなく真直ぐで、柔らかなすなおな心である」という意味で、そのような心によって、仏様を観想することができ、仏様に生かされている自分が実感されると説くのです。
  法華経の中には、「柔軟」という言葉が何度か使われていますが、とてもいい言葉だと思います。そして、仏教の本質にもかかわる言葉ともいえます。
                        ◇
 昔、道元禅師(曹洞宗の開祖)が宋(中国)にて四年間の仏教の勉学を終えて帰国した時、何も持ち帰らず空手で帰国しました。経文や仏像などをできるだけ沢山持ち帰るのが普通であった時代のことです。人々は不審がり「禅師は一体何を得て帰られたのですか。」と尋ねたところ、ひと言「柔軟心」と答えられたといわれます。
   「柔らかい心を得る」ということが仏法の要である、ということを伝える話です。
                      ◇
   ところで、口にくわえた筆できれいな花の絵などを描いている星野富弘さんのことは、ご存知の方が多いと思います。
   星野さんは、中学の体育の教師として赴任した直後に、体育館で宙返りをした際失敗して首の骨を折り、重度の障害を負ってしまいました。手足の自由を失い、九年間もの苦悩の入院生活の中で絵と出会ったのです。
    星野さんには、次のようなエピソードがあります。
 彼は、子供時代、渡良瀬川でよく泳いで遊んでいたが、ある時、川の中央に出すぎて溺れそうになった。岸に向かって必死に泳ぎ着こうとするが、速い流れに流されて岸から遠ざかるばかり。水を飲んでもうだめかと思った時、一瞬頭にひらめいたのは、いつも見ていた渡良瀬川の光景だった。川は、深いところは青々としているがそれはほんの一部で、ほとんどはきらきらと光を反射する浅瀬であることに気付いたのだ。そのとき、彼はこう思った。
「そうだ、何もあそこに戻らなくてもいいじゃないか。」
そこで、流れに逆らわずに身を任せて泳ぐと、速い流れが自分を進める流れとなり、足が立つ浅瀬へとたどり着けた、  
    というものです。
   星野さんは、苦悩の日々を送る中、ふとこの体験を思い出し、今の自分がまさに「元の岸に泳ぎ着こうともがいているあの時の姿」に重なって見えた、「何もあそこに戻らなくても…」と思った瞬間、パッと目の前が開け、むしろ動かない身体から教えられながら生きていこうと思ったとのことです。
                   ◇
   また、「五体不満足」の作者として知られる乙武匡洋さんは、先天性四肢切断という障害の中にあっても、それを「単なる身体的特徴」と考え、世の中には背の高い人もいれば低い人もいる、色の白い黒いもある、このように人にはそれぞれ個人差がある。自分の四肢が不自由なのも個人差に過ぎないと考えて明るく生きています。
                  ◇
   このような二人の考え方が「柔軟心」といえましょう。
   私たちもこのような智慧を身に着けたいものです。

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命を賭して信を貫く 平成14年3月10日
 
    日蓮聖人のことば 
種種の大難出来すとも智者に
我が義やぶられずば用ひじとなり。

               (「開目抄」)
毎日、昼食時に「今日は何の日」というテレビ番組を見ています。この番組で、三月七日には「斉藤隆夫」という人が取り上げられていました。昭和十五年のこの日は、この人が衆議院議員を除名された日だとのことです。
 斉藤隆夫については、あまり知られていませんが、〈粛軍演説〉・〈反軍演説〉と呼ばれる軍部を批判する演説をした人です。そして、それにより除名されたのです。
         ◇
 当時の世相は軍部の力が強くそれを批判するのは勇気のいることでした。犬養毅首相をはじめ多くの政治家が、右翼や軍人に襲撃されたり暗殺されたりしています。
 そのような世情の中で、彼は次のようなことも書いています。
 「日本の軍事行動は、アジア諸民族の共栄圏造りを目指すと言いながら、実はアジアの諸民族を支配下に置こうとする侵略行動である。」
 「今回の侵略戦は失敗であり、結局日本は負ける。これは誰の責任か。戦争挑発者たる軍部とこれに迎合する時局便乗者の責任である。この観測は何年か後には必ず的中する。」(昭和十八年「支那事変大東亜戦争に対する直筆」意訳)

 ほとんどの政党政治家が暗殺を恐れて沈黙を守った中で、このようなストレートな軍部批判をしていた政治家がいたことに驚きました。彼の発言に目を通すと、国家・国民の将来を本当に危惧する熱情に基づくものと分かります。
      ◇
 私たちの宗祖日蓮聖人が、幾多の法難にも屈せずに、命を賭して法華経を弘められたのもまた国家・国民の安泰を願ってのものでした。
 聖人は、法華経を説きはじめるに当たって、つぎのように述べています。
 「もし、法華経を一言でも語り出したならば、必ず迫害が加えられるであろう。流罪・死罪になるかも知れない。しかし、言わなければ釈尊の敵になってしまう。人々を救わないという無慈悲なことをすることになる。それならばどんな苦難にぶつかろうとも、命懸けで法華経を広めてゆこう」(「一谷入道御書」意訳)
 また、このようなお言葉もあります。
 「種種の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。」(「開目抄」)
 (智者が出て、私の主張が誤りであることを納得するように論破しない限りは、どんな大難が降りかかっても、屈することはない。
 このような決意と自信を以って 故郷の清澄山・旭ヶ森の頂に上り、はじめて南無妙法蓮華経とお題目を唱えられたのです。
 建長五年(一二五三年)四月二十八日、聖人三十二歳の時のことでした。これを以て、日蓮宗の創立とし、今年が「立教開宗七百五十年」に当ります。
 当山もこれを記念して四月七日に慶讃法要を営みます。

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怨みの連鎖を断つ 平成13年11月1日
 瀬戸内寂聴さんが、米英軍のアフガニスタンへの武力攻撃の停止を訴えて三日間の断食をしました。期間中は水分以外は口にせず写経三昧の生活だったということで、八十歳の
 法華経のことば
等正覚を成じて、広く衆生を度すること、
皆提婆達多が善知識に因るが故なり。

                 (提婆達多品第十二)
お体にはかなり堪えたことでしょう。
 このことを聞いて約百五十人もの人が馳せ参じ、祈りをともにしたとのことです。    
   彼女は、第二次世界大戦中に爆撃で母と祖父を失いました。この体験が反戦への強い願いの背景にあります。
 そして、彼女を反戦の行動に駆り立てたもう一つの原動力は、「宗教者は身を挺し、過激に『殺すなかれ』と言わなければならない」という仏教者としての想いです。                                  (「京都新聞」十月二十九日号を参照)
            ◇
 九月十一日にアメリカで起きた同時多発テロでは、数千人もの人が全く自分と関係ないことのために命を落としました。テロとは憎むべきもので、どんな理由をつけても許されないことは当然です。
  しかし、それに対する今回の米英軍の武力攻撃には、違和感をおぼえます。力で相手を屈服させることは、憎しみこそ増せ、テロの根絶に役立つとは思えません。
          ◇
釈尊は、
 「この世の中にありて、怨みに報ゆるに怨みをもってせば、ついに怨みの息むことなし。怨みをすててこそ息む。これぞ永遠の法なり。」(法句経五)
と教えます。       
怨みを報復で返せば、また向うも報復する。永遠に怨みの連鎖は断ち切れない。
ということで、仏教圏の人には自然とこのような考え方が身に付いているように思われます。
 昭和二十六年、仏教国であるセイロン(現在のスリランカ)は対日賠償を放棄しました。この時、セイロンの主席全権は「この世の中にありて、怨みに報ゆるに怨みをもってせば、ついに怨みの息むことなし。」という句を引用して、万雷の拍手を浴びたといわれます。
 仏様の教えが一国の対外政策として堂々と生かされているということに驚きを覚えます。
 また、今回のテロで息子を亡くした日本人の父親は、寂聴師と話していて泣き出すほどの悲しみにとらわれながら、「これ以上の人殺しはいやだ。人殺しはやめて欲しい。」と報復に反対の気持ちを訴えています。
     ◇
 法華経の「提婆達多品第十二」の中で、釈尊は、自分に対してたびたび危害を加えてきた提婆達多に対して

「自分が仏の悟りを得て衆生を救うことができるのも、みんな提婆達多という善い友(善知識)がいて、自分を鍛えてくれたお蔭である。」(枠中の「法華経のことば」意訳)  

と述べています。
 つまり、法華経の中では「怨み」は、単に「捨てる」ことから、「それをプラスに転じて生かし感謝する」という積極的対処法へと高められているといえましょう。
     ◇
 怨みの連鎖を断ち切って、テロのない平和な世界を作るために、このような仏教の智慧を生かしていきたいものです。

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社会のために 平成13年7月10日
  日蓮聖人のことば
異体同心なれば万事を成ず
           〔異体同心事〕
  梅雨も明けたかと思わせる暑さが続く中、赤・白・ピンクなど様々な色に、タチアオイが大輪の花を咲かせています。
   この花は、梅雨に入るころに茎の下方から順に花を咲かせ、最上部が開花する頃に梅雨が明けると言われます。そのすらりとした様子と花のあでやかさから、中国では美女の立ち姿に喩えられます。
               ◇
   このタチアオイが、最近朝のラジオ番組で取り上げられ話題になりました。
  「広島市内に、両側に一・二キロメートルに亘って約二千本のタチアオイが植えられた道路があり、『アオイ通り』と呼ばれている。
   これらの花は、今から二十年前に、当時八十歳の丸畑さんという老人が、独力で植え始めたものである。雑草の生い茂る荒地を鎌と鍬で少しずつ耕し、種をまいて、三年がかりで道路沿いに五百メートルの花畑が出来上がった。やがて、千本のタチアオイが美しい花を着け、道行く人・近所の人の憩いの場となった。
   ところが、十年後、道路の車線を広げる工事のために花畑を撤去しなければならないことになった。
   丸畑さんは、拡幅した道路の両側に再度花畑を造りたいと思ったが、実は、花畑は道路の法面の無断使用であったため行政の許可が必要であった。丸畑さんの熱意に行政も動き、さらにアオイが無くなるのを残念に思う多くのボランティアの協力によって、花畑はさらに拡大して前述のごとく見事に再生した。」
(六月十二日・NHK第一)というものです。
アオイ通りに咲き誇るタチアオイ

            ◇
   同類の話に菊池寛の小説「恩讐の彼方に」があります。禅海という僧が耶馬渓の〈鎧渡し〉と呼ばれていた難所を避けるために洞穴道を独力で掘り始め、二十一年の歳月を要して「青ノ洞門」を開通させる、その過程で禅海の必死の姿に打たれた村人が協力する話です。
  
   どちらの話も、社会のためになる大きな事業は、核となる一個人の存在があって、その一途な姿に共感する人の協力によって成就されるものだ、ということを物語っています。

            ◇
 法華経・題目の広宣流布もまた同じです。日蓮聖人という卓抜な一個人が提唱された唱題  が、その一途な布教活動により多くの人に共感され、今日のように広められたのです。
「異体同心なれば万事を成ず」[(身体は別々でも)志を同じくして努力すれば、すべてのことは必ず達成される]のお言葉はまさにその実感であり、普遍性を有した言葉といえます。

*ちなみに、この「異体同心」は、日蓮宗独特の用語として一致協力を表わす意味でしばしば用いられます。

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智 慧 を ま な ぶ 平成13年3月10日
  
    法華経のことば
 我所得智慧 微妙最第一
  (我が得たる所の智慧は微妙にして
   最も第一なり)  【方便品第二】
ー暑さ寒さも彼岸までー
間もなく春の彼岸です。そして、彼岸になるといつも実感するのが冒頭の格言の確かさです。
  
寒い寒いと言っても春の彼岸を境に必ず暖かくなるし、昨年のように特に厳しい暑さも秋の彼岸を迎えると途端に涼しくなるのは不思議なくらいです。
   ◇
  
格言とは、先人の経験の集積から生み出されたもので、だからこそ、だれにも共通して実感されるのです。この経験の集積
を「智慧」といいます。

  
ところで、「智慧」はよく「知識」と対比されます。「智慧」が体験の集積から得られる処理能力であるのに対し、「知識」は学問・理論から得られる情報といえましょう。
   ◇
  俳優の苅谷俊介さんが興味あることを書いています。
  
「昔、コペルニクスは地球が太陽の周りを回っている事を主張し、地動説を唱えた。この考え方を基礎として天文学が発達し、人類は軌道計算によって宇宙ステーションを打ち上げるまでに科学的発展を遂げた。地動説は今や、疑う余地の無い科学的事実、常識となっている。
 
  しかし、私達の普段の生活は、おはよう・こんばんはの挨拶から農業・漁業の生業、年中行事に至るまで、朝、東から太陽が昇って、夕方西に沈むという天動の実感から成り立っている。
つまり、人が《生きる》上でのノウハウは天動説に基づく判断で充分であり、地球の自転・公転などの地動説の知識は、日常生活にとってはまったく無用の長物でしかない。」
(「更生保護」平成十二年一月号)

  
大要は右のごとくですが、ちょうどここでいう天動説は「智慧」、地動説は「知識」に対応するように思います。
   ◇
  最近のニュースに目を移すと、政治家・官僚・裁判官・教育者など、あらゆる階層の人たちの不祥事が報じられ、その当然の反映として子供たちの犯罪も後を絶ちません。現代の人心の荒廃は、今や、危機的状況にあるといえます。
  苅谷さんはこのような状況を「物事を科学的な数式で捉え、知識だけを詰め込む地動的立場からの教育の結果であり、これからは、心の豊かさ・命の尊さを実感させる天動的立場からの教育が大切となってくる。」  と結論付けていますが、うなづけるものがあるように思います。
  
私達がよりよく生きるにはもっと「智慧」を学ぶことが大切です。
   ◇
  
そして、人類が得た最高の智慧は、
  「我が得たる所の智慧は微妙にして最も第一なり」(法華経・方便品第二)
とあるように、釈尊の到達した智慧=法華経でしょう。
  宗祖のお言葉にも、「法華を知る者は世法を得べきか」(法華経に通じた人は、正しい生き方が分かる)とあります。 
  
法華経に親しむことによって誰もが仏様の智慧を学び、心の豊かな暮らしやすい世の中にしたいものです。

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悲しみに打ち克って 平成12年11月1日
 
法華経のことば
 常懐悲感 心遂醒悟
(常に悲感を懐いて 心遂に醒悟す)
        【如来寿量品第十六】
 十月二十九日幕を閉じた「シドニーパラリンピック」では、生き生きとして明るく、自信に満ちた魅力的な選手たちの姿が印象的でした。しかも、激しく動き、高度なレベルの技に挑む様子は、障害を感じさせず、見るものの関心を勝敗や記録へへと向かわせるものでした。
  ◇
しかし、ここに至るまでの各選手の努力は、並々ならぬものがあったと思われます。

成田真由美選手は、今回、水 泳の七種目に出場して金六、銀一のメダルを獲得し注目を集めました。彼女は、中学一年の時、脊髄炎で下半身マヒとなり、その後、さらに交通事故に遭い障害を重くしています。

彼女の言葉。「私はこうして車いすに乗っていますが、これは特別なことでしょうか。私はそうは思いません。視力の低い人がメガネをかけるのと同じです。私は足が不自由だから車いすに乗っているだけです…。
私は障害を与えてもらいました。障害者になってよかったと思います。胸を張って生きていきたいです。」
  ◇
また、スウェーデンのレーナ・マリア選手は、両腕が無く、左脚が右脚の半分の長さという障害を負いながら、水泳競技に入賞し、ゴスペル歌手としても活躍し、主婦業もこなしています。

彼女の言葉。「神様は私に手の代わりに心の中に豊かさを与え、私が自分自身を愛せるようにして下さいました。」
  ◇
法華経の中に、
「常懐悲感 心遂醒悟」 (常に悲感を懐いて心遂に醒悟す)という句が出てきます。 

「(父の死の報を聞いて)常に悲しみの気持ちに満たされ、心は遂に目覚める。」と言う意味です。
悲しい現実を体験することによって、人は真実の生き方に目覚めるということでしょう。
  ◇
出場の選手たちは、交通事故・階段から転落・工事現場からの落下物に当たるなど、様々な原因で障害を負ってしまった人たちで、それぞれに筆舌に尽くせぬ苦しみを味わっています。皆、そこから長い時間を掛けてその人なりの解決の仕方を模索し、悲しみから醒悟した人たちばかりです。だから、誰にも共通した、明るさ・精神的たくましさを感じるのです。
前掲の二人の言葉など、正に仏教語で言う「諦め」(真実を明らかにし、納得して従う)の境地です。
  ◇
今年は、「人を殺す体験がしてみたかった」に代表される、「十七歳」の事件が世情を賑わせました。
思うに、この世代に共通するのは、日常生活の中での「つらさの体験」の不足です。だから、被害にあった肉親の悲しみに思いが及ばないのです。

喜びや悲しみやつらさなどいろいろ身をもって味わうことが大切で、他への思いやりも、問題を自分で処理する能力も、そこから生まれるのだと思います。

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ことばは心を映す鏡 平成12年7月10日
    法華経のことば
 
    言辞柔軟 悦可衆心
  
  (言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ)

                【方便品第二】
  九月に開かれるシドニーオリンピックでは、女子マラソンの高橋尚子選手が注目を集めています。
九八年にバンコクで行われたアジア大会で、猛暑の中、日本新記録で優勝しました。丁度テレビ中継を見ていましたが、さわやかな笑顔と穏やかな話し方が印象的でした。
   ◇
最近、この高橋選手のインタビュー記事を、読みました。
(「今週のひと」赤旗日曜版六月十八日号)
この中で、「あの子はとても気持ちのいい子。人がいい仕事をしているときにも心の底から喜べる。全部を喜びに変えられる子。僕らも教えてもらってるんです。」という小出監督の話が彼女の人柄を表しています。

また、中距離ランナーであった彼女がマラソンに転向したのは、監督のおかげであること。怪我などで苦境にあるときは「何も咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く。」という言葉が支えになったことなどが語られています。
  ◇
そして、そう語る彼女の様子を、記者は「柔和な笑み」とか、「顔をほころばせ、目を輝かせつつ、ゆっくりと言葉をつなぎます。」などと記しています。
この表現は、テレビに映し出された様子とまさに同じで、彼女の人柄がそのまましぐさ・表情に表れたものと言えましょう。
  ◇
この話から、「言辞柔軟 悦可衆心」という法華経・方便品第二の中の句が思い出されます。
これは、「日蓮宗のお勤め」には必ず入っているし、信行会でも毎回読誦しているのでお馴染の人も多いと思います。

話すことばが柔らかで快く相手にひびくので、聞く人は皆「なるほどありがたい」と悦びの気持ちに引き入れられる

という意味です。このような表現は経文の中に随所に見られますが、 釈尊のお人柄から自然ににじみ出たものと思われます。
  ◇
人の発することば・表情・動作は、すべてその人の心を映し出す鏡です。
荒々しいことばは、その人の
心が荒れすさんでいる現れであり、大言壮語するのはその人の虚栄の心の証しです。
そして、平穏で、満ち足りた心であれば、話されることばは穏やかで優しく、その立ち居振舞いもゆるやかで、人にやすらぎを感じさせるものとなるはずです。

私たち凡夫には、なかなか及びがたい境地で、釈尊のようには行かぬまでも、高橋選手のようにお手本となる人も多く見受けられます。
お互い努力して、そのような境地に至りたいものです。
  ◇
釈尊に、このようなことばもあります。
「心しずかなり。言葉おだやかなり。行いもゆるやかなり。この人こそ正しき悟りを得、身と心のやすらぎを得たる人なり。」(「法句経」九六)

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心の財(たから)第一なり 平成12年3月10日
 ある檀家さんからこんな話を聞きました。
    日蓮聖人のことば
蔵の財よりも身の財すぐれたり。
身の財よりも心の財第一なり
             (崇峻天皇御書) 


 「アマゾン川の上流、と言っても幅が二キロメートルもあるのだが、そこをボートくらいの大きさの舟で下っていた時のこと、突然舟のエンジンが止まってしまい自由がまったくきかなくなってしまった。両岸は密林で、時おり人の住む部落が見えるが、遠くて助けの求めようもない。 急流でどんどん流され、舟の中も水浸しになり、無事の生還は絶望的と思われた。
 しかし、ある部落の沖を通過するときに、幸運にも発見され、部落の人がエンジン付きの舟ではるばる助けに来、岸まで曳航して修理してくれた。
 自分たちにとっては命の恩人でもあるのでできる限りのお礼をしようと思ったが、相手はごく当然のことをしたまでと、お礼はいっさい受け取らなかった。」という話です。
 
 こう書くといかにも美談めいた話になりますが、この土地の人たちにとっては、困っている時に助け合うことは自然のことであって、ごく当たり前のことをしただけなのです。
                      ◇
 今の私たちの社会では、引越しの荷造りや車の脱輪の引き上げなど、以前には周囲の人が協力し合って済ませたようなことが、代価を払って専門業者に委託するようになっています。
 特にあのバブルと騒がれた時期には金銭万能の風潮が顕著になり、損得勘定によってしか動かないような人も多く見られました。しかし、バブルが崩れその感覚が遠のくに連れ、世の中の価値は金銭や物だけではない、という想いが戻ってきつつあるようです。
                   ◇
  ☆「今の社会を少しでも良くする努力をしないと人生はむなしい。」という新聞記事を読み   ドナーになりました。
  ☆「三万円で三年間勉強できる。」私が使う三万円と奨学生が使う三万円とは同じ金額   なのにどれだけの価値の違いがあるのかと考えた時の驚きは…。
                                     (ダルニー通信第十九号)
 
 右は、「ダルニー奨学金」という奨学制度のドナー(提供者)のことばです。
 「ダルニー奨学制度」とは、主にタイの中学生への教育里親制度で、年間一万円で一人の生徒が一年間学校に通えるように支援するものです。
 当山では、家内が三人の奨学生のドナーとして協力しています。協力すると、支援する生徒の写真付き報告書が届き、「あの一万円がこの子の人生を大きく変えるのに役立っている」という実感を抱けるようになっているのです。前掲のドナーのことばにそれがよく表れていると思います。
                     ◇
 今、このような組織は全国的に増えつつあります。また、地域毎に多くのボランティア組織が生まれ活躍しています。
 みな「少しでも世の中を良くするためのお役に立っている」という充実感を求めているのです。
 これが、日蓮聖人のお言葉にいう「心の財(たから)」であり、法華経の説く菩薩行に通じるものと言えましょう。

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適応力を取り戻す 平成11年11月1日
    日蓮聖人のことば
  雪山の寒苦鳥は、寒苦にせめられて、
夜明けなば栖つくらん、と鳴くといえども、
日出でぬれば朝日のあたたかなるに眠り忘れて
又栖をつくらずして、一生虚しく鳴くことを得。

 一切衆生もまたまた是の如し。
              (新池御書)
 「子供の体力低下続く」と言う見出しの記事が、十月十日の日経新聞に載っています。毎年文部省が、体育の日を前に行っている「体力運動能力調査」(平成十年度分)の結果の分析記事です。
  ◇
 過去十年の傾向をインターネットで検索すると、確かに小中高生共に右下がりのグラフになっています。
 中でも高校生の低下率は甚だしく、男女計二十四項目調査した中で、男子の懸垂を除いて、すべて右下がりです。(下図参照、二十四項目の合計点のグラフ)
年々向上する体格とは裏腹に体力・運動能力はどんどん低下しているのが分かります。
  ◇
 テレビの出現・ゲームの隆盛・塾通い・遊ぶ場所の減少など、戸外で跳びまわって遊ぶ機会がなくなったことが、その理由のようです。
 ともかく、使わなければ、人の機能は退化するのです。
 ◇
 しかしこれは、必ずしも子どもだけに限られた傾向とは言えないのかも知れません。
日本の国全体が、昭和三十年代の高度成長期以来、自動車を手に入れ、テレビを購入し、次から次へと便利さを追い求め夢を実現してきました。
 酷暑の夏でも、クーラーをフルに回転させて背広にネクタイで過ごし、厳しい寒さの折でも、暖房の下、半袖シャツで売り場に立つなど、快適な環境造りにも成功しました。
  ◇
 しかし、このような、地球の資源を野放図に浪費し、自然の理に逆らう暮らしの中、私たち日本人は自然への適応力を失くしつつあると言えます。
一昔くらい前のこと、『夢の代償として私たちは世界一もろい人間を生み出しているのかも知れない』という警句を目にしたことがありますが、この果てしなく下がり続ける体力のグラフを見ると、正にその通りに経過していることが分かります。
 ◇
 日蓮聖人のお言葉にある雪山の寒苦鳥のように、
 「耐えがたい寒苦の中にいる時は、夜が明けたら巣を作ろうと鳴くが、日が出て暖かくなると快適な環境に眠り呆けて巣を作るのも忘れてしまう」
 その様にして一生を過ごしがちなのが人の常です。
 ◇
 私たちは、自然から切り離された形で〈快適〉になっていく環境の中で、もっと動物的な意味での適応力を取り戻す必要があるようです。
 また同時に、「受け難き人身」を受けてこの世に生まれ出たことを自覚して、仏陀の悟りに近づけるよう精進努力したいものです。
 「一生虚しく過ごして万歳悔ゆることなかれ」(富木殿御書)とのお言葉もあります

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生かされて生きる 平成11年7月10日
 
木陰をつくる境内の銀杏
当山の境内にはイチョウの大木があり、晴れた日には大きな濃い影を地面に落としています。灼け付くような炎天の下でも、この中に身を置くとホッと生き返った気持ちになります。
 また、この緑陰を渡ってくる涼風がいかにも心地よく、お蔭で真夏でもほとんどクーラーを使わずに済んでいます。
         ◇
 ちなみに、木陰はなぜ涼しいのでしょうか。
 木陰の空気が直接日光に温められないからなのですが、それだけではありません。植物は、根から水を吸い上げ、葉からそれを蒸発させています。その時に奪われる気化熱によって温度を下げているのです。
 大木になると、吸い上げる水の量も膨大になります。そしてそれが、天然の大型クーラーとなる訳です。
  
 普段は忘れがちですが、私たちはこのように大自然から様々な恩恵を受けて生きているのです。
  ◇
 こんな話もあります。
 「人間一人の命を一年間養うには、マスという魚に換算して三百匹分の栄養が必要であり、一匹のマスを一年間養うにはカエル三百匹、一匹のカエルを一年間養うにはバッタ三百匹の命が必要になる」という話です。
 この計算によれば、一人の人間の一年間の生活は、バッタの命に換算して二千七百万匹分の犠牲の上に成り立っているということになります。
 一生涯では?と考えると膨大なものとなるでしょう。
  ◇
 こう考えた時、私たちは、多くの生き物や水・空気などあらゆる自然の恩恵を受けて《生かされて生きている》ことに思い至らずにはいられません。
 そして、そこから、すべてのものに感謝する心、すべてのものの命を尊ぶ心、さらには、他への施しの心などがおのずと生
じてきます。
 そんなことに思いを馳せ、そんな心を養う場、それが毎年各寺院で行われる「施餓鬼会」です。
  ◇
 そもそも施餓鬼とは、ふだん供養されることのない無縁の霊(=餓鬼)に飯食を施して供養し、併せて各家の先祖の霊の追善回向をする法会です。
 多くの無縁の霊を供養する、ーこれも、私たちが一人では生きられず、多くの人に支えられて《生かされている》という想いから生まれ出た行事と言えましょう。
  ◇
 当山では、来る八月二十五日(水)午後一時より施餓鬼法要、午後七時より利根河畔にて川施餓鬼法要を厳修します。

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精進するということ 平成11年3月10日
   日蓮聖人の言葉

 衆流あつまりて大海となる
 微塵つもりて須弥山となれり
            (撰時抄)
 時がめぐり、また春のお彼岸の季節となりました。
            ◇
 この季節になると、いつも驚きをもって見る現象があります。当寺の墓地の通路は、篤信の方のご寄進でアスファルト舗装になっておりますが、ところどころその硬い舗装を突き破って草が芽吹いてくるのです。
 舗装は人力では壊れないくらい硬いし、草の芽は指先で摘まむとちぎれるような軟らかさです。だから、常識的には考えられないことです。
しかし、少しずつ少しずつ加わる力は、このように思いがけない大きな力となって発現するのです。
           ◇
 ところで、「精進」という言葉があります。
 六波羅蜜と言われる、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六つの実践行の第四番目に位置する言葉です。
 「お彼岸」は、これら六つの行を実践することによって、迷いの此の岸から悟りの彼の岸に渡りましょうということなのです。
          ◇
 この「精進」ですが、普通「目標に向かってひたすら精進努力します」などと用い、《わき目もふらずにがむしゃらに頑張る》ような意味に思われています。
 しかし、「少水の常に流れて能く石を穿つが如し…これを精進と名づく」(「遺教経」)と釈尊も示されるように、《地道な努力を息長く続け、さとりを目指すこと》が「精進」の本来の姿です。

 冒頭に挙げた草の芽も、栄養を蓄えて冬を過ごし、暖かくなるのを待って力を少しずつ放出して芽吹いたわけで、人に擬すれば〈精進の賜物〉と言えましょう。
          ◇
 今回の七五〇寺域整備事業では、多くの方々から奉賛金を賜りました。
 その際、一括納入の方、分納された方さまざまですが、中には三十回の分納で、毎月寺まで持参下さった方も何人かいらっしゃいます。
 その方々は、間もなくすべて完納となりますが、毎月ほぼ決まった日に確実に寺に足を運んでくださり、毎回たいへんありがたい気持ちでお収めさせていただきました。
 一歩一歩の地道な行いが積み重なって目標に到達したということで、これも正に〈精進の賜物〉です。
         ◇ 
 建長五年(一二五三年)四月二八日、日蓮聖人は故郷の清澄山・旭ヶ森の頂きではじめてお題目を唱えられました。当然、この時点ではお題目を唱えるのは、世界中で聖人ただお一人です。
 それが、現在では、〈小さな流れも衆まれば、果てしなく広い大海原を創り、微細な土くれでも積もり積もれば、最高峰の山を成す〉ように、一人から二人、百人、何千万人と広宣流布されています。
        ◇
 お題目の輪がさらに広がり、法華経の救いがますます多くの人に及ぶよう、私たち一人一人が精進に努めたいものです。

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お祖師様へのご報恩 平成10年11月1日
池上・本門寺 お会式の賑わい
 九年間、身延の山で弟子信徒の指導に当たられた日蓮聖人は、年来の下痢の病を治すために常陸の湯(水戸市加倉井)に向かわれましたが、途中、池上(東京・大田区)の地で病が重くなり、ここに二十日余り滞在され、十月十三日(一二八二年)にご入滅になられました。
 ◇
この日の朝、卯の刻(六時)に一揺りの地震がありました。臨終の迫ったことを悟られた聖人は、予ねて染筆してあった大曼荼羅ご本尊を掛けさせ(これは後に「臨滅度時のご本尊」と呼ばれ、宗定のご本尊とされている)、弟子たちと共に法華経を読誦しながら辰の刻(八時)に安祥として六十一年の生涯を閉じられたのです。 この時、池上邸の桜が時ならぬ花を咲かせたといわれています。
  ◇
お会式は、この日蓮聖人のご入滅の忌日に行われる法要儀式です。 池上邸の桜の故事にならって桜の造花を飾り、五色(当山では三色)のこまくら餅を供えてご遺徳を偲びます。
  ◇
ところで、さる十月十二日、久しぶりに池上本門寺のお会式に出かけてきました。天気に恵まれたこともあって相変わらずのすごい人出でした。 (今年の人出は二十九万人、参加の講中は百二十とのこと)。
今回は、団参の引率ではなく、家内と二人での気ままなお詣りでした。
大堂(日朗上人作、祖師像を安置)と大坊(本行寺。日蓮聖人がご入滅の時寄り掛かられた柱を安置)に詣でた後、此経難持坂と名づけられた正面階段を練り上ってくる万灯行列をたっぷりと見物しました。
チャンチカ・チャカチカという叩き鉦、リズミカルに打たれる団扇太鼓や笛に合わせて 纏が威勢良く振られます。それぞれの講中ごとにリズムも振り付けもさまざまで、老若男女入り混じっての熱演ですが、特に若い男女、子供の参加が多いのが、頼もしい限りです。
時の経つのも忘れて見入ってしまい、午前一時の帰宅になりました。
  ◇
池上本門寺のお会式の賑わいは江戸時代よりずっと絶えることなく続いて来たもので、他宗の祖師方の命日の行事が、しめやかにご遺徳を偲ぶのとは趣を異にしています。
この賑やかさは、日蓮聖人のおかげで法華経・お題目の正法にめぐり逢わせていただいたという「歓喜・感謝の心」の現われだと言えましょう。
  ◇
今年のお会式は、第七百十七回目に相当します。
当山では、来る十一月十二日に厳修されます。お誘い合わせご参詣下さい。

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いのちを伝える 平成10年7月10日
   自分の番
 
     ー命のバトンー

   父と母で二人
   父と母の両親で四人
   そのまた両親で八人

   こう数えてゆくと
   十代前で千二十四人
   二十代前では―?
   なんと、百万人を超すんです

   過去無量の
   いのちのバトンを
   受けついで
   いま、ここに
   自分の番を生きている
   それがあなたのいのちです
   それがわたしのいのちです
   ◇
 これは、篤信の仏教徒・相田みつを氏の詩です。
 これを読むと、私たちの命が、太古の昔から綿々と受け継がれてきたものであること、私たちの現在あるのは父母、さらにその父母…と、過去無量の先祖のお蔭であること、そしてやがては、私たちも祖先の一人となって後代に命を受け渡してゆく責務を負っていること、などを考えさせられます。
   ◇
 私たち人間の一生は、一人一人誰もが、日々勉強し自分を向上させ、立派な豊かな人間になろうという努力の一生であるといえます。そして、その一人一人が努力を重ねて一生の間に創り出したもの、その無数の積み重なりが人類の文化・文明となるのです。
   ◇
 私たちの普段使っている紙や文字、電気、お茶碗・コップに至るまですべて文化・文明の所産であり、これらなくしては私たちの今の生活は成り立ちません。これらを創り出し伝えてくれているのが、私たちの先祖です。
   ◇
 「ご先祖様のお蔭」ということは、単に私たちに命を伝えてくれている、あるいは、私たちを産み育ててくれた親、その親を育んだそのまた親…、への感謝ということにとどまらず、過去に生きた一人一人がそれぞれに築いてきたものを文化・文明として今の私たちに伝えてくれていることへの感謝でもあるのです。
   ◇
 七月八月は、お盆の月です。お盆には、念入りに精霊棚を飾り、ご馳走を用意して、心を込めてご先祖の霊をお迎えしましょう。
   ◇
 ところで昔は、お盆に限らず、お節句・七夕・お月見など、どこの家庭でもそれぞれに親子一緒に飾り付け、ご馳走を作り祝いました。そして、子供たちは、そういう行事を通して、豊かな心を育み、懐かしい思い出を心にとどめていったのです。
 近年、このような風習が失われて行くのは残念なことです。
   ◇
 最近、年少の子供たちによる犯罪や問題行動が目立ちますが、その傾向と昔からの行事が消えて行くことに、関係があるように思えてなりません。
親や祖父母との、懐かしい思い出は、必ず子供たちの非行の歯止めとなるはずです。そのような意味からも、昔からの行事は大切にしたいものです。

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仏種を開花させる 平成10年3月10日
  日蓮上人のことば

 法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり
      (崇峻天皇御書)

   今日彼岸菩提の種を蒔く日かな 蕪村

 三月はお彼岸の月です。墓参をし、それを縁として普段は疎遠になっている仏教の教えにも目を向け、安心の生活を送れるよう心がけたいものです。
   ◇
 「安心」とは、アンジンと読み、仏道の修行によって得られる安らぎの境地のことです。「悟り」や「成仏」・「到彼岸」などという言葉も同じ意味と言っていいでしょう。
 こういう言葉を並べると、私たちは、自分とはまったく無縁な別世界のことのように思いがちです。
 しかし、仏教では、すべての人の中には仏になれる種子が埋蔵されている、だから、その種子を見いだし育てることによって安心の境地に至れると教えています。教えとはすべて、実現できるから意味があるのです。努めれば手が届くものと考えたいものです。
   ◇
 仏になれる種子とは、《仏種・仏性》と呼ばれるもので、「一切衆生悉有仏性」というようにどんな人にも、備わっていると考えられています。だから、芥川竜之介の小説「蜘蛛の糸」に出てくるカンダタのような悪逆非道の人間でも、蜘蛛の命を一瞬でも憐れむ気持ちが生じたのです。その一片の人間らしさ…それが仏性です。
   ◇
 法華経(常不軽菩薩品第二十)の中に、「不軽菩薩」の話がでてきます。

 昔、一人の若い修行者(菩薩)がいました。彼は特に経を読誦するわけでもなく、ただ人を見れば近づいていって礼拝し、一つ覚えのように「私はあなた方を軽んじません。なぜなら、あなたがたは必ず仏になる方々ですから。」というばかりです。
 多くの人々は、気味悪がり不快がって、「よけいなお世話だ」と罵り、石などを投げつけます。しかし、この菩薩は決して怒らず、走って逃げては遠くから「私はあなた方を軽んじません。…」と繰り返します。このように「常に人を軽んじない」というところから常不軽というあだ名が付いたのです。
 この菩薩は、このひたすらな行によって仏になり、自分を罵った人たちをも教化しました。この方がお釈迦様の前世の姿です。
    ◇
 人には、老若・男女・強弱・貧富、いろいろ違いはありますが、だれも皆《仏種》を有し、将来仏になる可能性を秘めています。だから、不軽菩薩はいかなる人をも軽んじたりせず、尊敬して礼拝したのです。
   ◇
 仏道とは、仏種を育て花開かせることです。
 私たちは、、自分をつまらぬ人間と思わずに、自分の中にこのようなすばらしい種が秘められているのだということを自覚し、それを見つけ育てるよう努めたいものです。
 そしてまた、他の人の仏性をも「拝み出す(尊重し気付かせてあげる)」こと、…これが、不軽菩薩の人間礼拝の菩薩行であり、日蓮聖人のお言葉にある「法華経の修行の肝心」になるのです。


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地上に人が住めなくなる! 平成9年11月1日
        釈尊のことば
三界は安きことなし。
なお火宅のごとし。
                 (法華経・比喩品第三)
 数年前になりますが、「オゾン層破壊の衝撃ー黒メガネの町ー」という見出しのコラム記事(平成四年六月六日、読売夕刊)があり、共感するところがあったので切り抜いておきました。
 それによると、「南米チリの南極に近い側で、放牧の羊たちが目を真っ赤にただれさせて失明し、大量に死に始めている。」、「住民は町中村中サングラスの人影ばかり」、そして「水・空気の汚染に次いで、太陽の光までが、毒と化した。地上に人が住めない日が来るのは確実だ。」などとあります。
 先日の朝日紙上(十月二十一日付)にも、「南極上空に六年連続でオゾンの大穴が確認された」という記事がありました。 
 オゾン層の破壊は、現在も進行しているのです。
  ◇
オゾン層は、成層圏にあって地球をとりまいており、有害な紫外線を吸収して地上の生物を守ってくれています。 オゾン層が一㌫減少すると、皮膚ガンにかかる率は三㌫増える、また、白内障が増え世界的に十~十五万人が失明すると言われています。
このほか、有害紫外線の増加によって、海洋の植物プランクトンが減り海洋生態系に影響を与えたり、農作物の生育を阻害することなども予測されています。
  ◇
このオゾン破壊の元凶はフロンです。フロンは、人間が創り出した物質で、冷蔵庫やカークーラーなどにも使われています。今は製造禁止になっていますが、過去に二千百万トンが製造されました。そのうち大気中に放出されオゾン層に達しているのはわずか十㌫で、八十㌫は未だに大気中に漂っているのです。(残る十㌫は地上で使用されています。)大気中のフロンがオゾン層に達するのには、二十~三十年を要します。 二十~三十年後の地球はどうなるのでしょうか。
  ◇
私たちの住む地球は、他にも、温暖化・森林破壊・海洋汚染・産業廃棄物・ダイオキシン・酸性雨……など、問題が山積しているのです。
冒頭の「地上に人が住めない日が来るのは確実だ。」との指摘が、現実味を帯びて来るではありませんか。
  ◇
法華経(比喩品)に、「火宅の譬え」という話があります。
ー大富豪の大邸宅に火事が起きる。中には、多くの子供たちがいるが、火の恐ろしさも知らず遊びに夢中で逃げようとはしない。それを富豪の父が方便を以て救い出すという話です。ー
ここで、「燃える大邸宅」は煩悩や苦しみに満ちた私達の住む娑婆世界であり、「富豪の父」は釈尊、「子供達」は私達・凡夫ということで、【無常の現実に埋没し、現在の楽しみのみを追い求める衆生を悟りに導き、仏の最高の教えー一仏乗の教えーをお与えになる】ことを説いています。
  ◇
意味するところの違いはあっても、私達の住む地球は、まさにこの「火宅」の状態にあると言えるでしょう。 私たちはこの危機にまったく無自覚です。
かけがえのない地球を護るため、省エネ・省資源の生活を心掛けたいものです

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万物と共に生きる 平成9年7月10日
    釈尊の言葉

縁起をみるものは我をみる
我をみるものは縁起をみる
(縁起の思想が釈尊の教えの根本であるということ)
 先日、晩酌をしながらふと思いました。 夏の宵の趣が、何か足りないな、と。それは、蛙の声がぜんぜん聞えてこないことでした。以前は、この時期には、天に轟くような蛙の合唱が耳に入ってきたものです。
 そういえば、身近にホタルを見掛けなくなって久しくなります。田圃に沢山いたザリガニも姿を消し、ドジョウの数も少なくなりました。
 セミ・トンボ・ヒキガエル・ヘビ…こう挙げてみると、近年、生き物の数がずいぶん減ってきていることに気付きます。
  ◇
 物の本によると、現在、生物の「種の絶滅」が急激に進んでいるとのことです。
 日本においても、朱鷺の絶滅が一時話題になりました。最近では、諌早湾の干拓によって、ムツゴロウを始めとして二十種類以上の生物が絶滅するだろうと言われています。
 世界的に見れば、熱帯雨林や原生林の乱伐によって、砂漠化する土地が増え、種の絶滅のスピードは加速度的に速まっていると言われます。
 今から百年前には、そのスピードは、一年に一種のペースであったようです。それが二十年前には、一年に一千種になり、現在は年に一万種以上の生物がこの世界から消滅しているそうです。
  ◇
 釈尊によれば、この世の中のすべてのことは、「縁起」の法則に従って成り立っています。 「縁起」とは、縁(よ)りて起こっていると読み、「世間に存在するものはみな、何かの原因に基づき、それを補助する条件(縁)がからんで生まれる」、というのです。
 従って、この世間に存在するものはみな、神や創造主などによって創られたのではなく、この世間に存在するものが互いに影響しあって、かかわりをもちながら生じた、ということになります。
  ◇
 縁起の法によれば、世界に存在するものはすべてが寄り添い、互いに支え合って生存しています。 人が生きていくということも、目に見えるもの、見えないもの、あらゆるものの助けを受けているのであって、自分の力だけで生きているのではないのです。
 だから、多くの生物が絶滅し生態系が崩れることは、やがて、人類の滅亡にもつながります。「朱鷺やムツゴロウがかわいそう」などといってはいられないのです。
 生態系が弱まった結果、免疫機能や生殖機能が低下し、アトピー、アレルギー、ガン、エイズなどが増えているのがその兆候だという説もあるのです。
  ◇
 世界のすべてのものは縁起しているのです。だから、私たちは、共生の道を探らなければいけません。人間と動物、人間と植物、人間と大地、健常者と障害者、‥‥‥。
 そのためには、これも仏教の教えである「少欲知足」という言葉の意味をもう一度見直してみたいものです。

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お盆のいわれ 平成9年7月10日
「お盆」(「盂蘭盆会」)は、親を思う心から始まっています。
          ◇
 お釈迦様の弟子で、神通力第一といわれる目連が、亡くなった母親のことが気になり、神通力で死後の世界を訪ねますと、母親は餓鬼道に堕ちて苦しんでいました。腹はふくれ、手足は骨と皮ばかり、顔は目玉が今にも飛び出さんばかりというひどい姿です。
 目連は驚いて、母親に色々な食べ物を差し出しますが、母親がそれを食べようとすると炎になって燃え上がってしまうため食べることが出来ません。水を飲ませようとしても、火に油を注ぐように燃え上がって母親の苦しみを増すばかりです。
 手の尽くしようがなくなった目連は、思い余ってお釈迦様に相談します。
 お釈迦様は、お坊さん達の修行期間(雨安吾)の終わる七月十五日に、お坊さん達に食べ物を供養することによって、母親が餓鬼道の苦しみから救われると教えられました。

このように、目連尊者がお坊さん達に七月十五日に、母親の供養をしてもらったことが、お盆の始まりと言われています
          ◇
 それでは、目連尊者の母親は、なぜ餓鬼道に堕ちたのでしょうか。
 
目連の家は資産家で、いくつもの宝蔵を持っていました。 目連は出家するときすべての宝蔵を、乞う者には施すようにと頼んでいきました。母親は最初のうちはその通りに人々に施していたのですが、宝蔵が残り少なくなったとき、わが子のためにせめて一つは残しておきたいと言う気持ちになり、それ以後はどんなに乞われても一切施すことをしませんでした。このときの物惜しみをした業によって、目連の母親は餓鬼道に堕ちたというのです
          ◇
 目連尊者の母は、子供への愛情ゆえに犯さなくても良い罪をあえて犯し、そのために餓鬼道に堕ち、その苦しみにあえいでいたことになります。
ある小学校で、母親が担任の先生に「うちの子は風邪で休む。だから算数の授業は進めないで下さい。」と、電話をしたとのことです。親とは、程度の差はあれ、このような盲目的な考えに陥るものです。人は、親にこのような思いを幾度もさせながら育てられるのです。
 私たちは、何事もなく成長し、自分の力で生きていると思いがちですが、親にも祖父母にも、子ゆえ、孫ゆえに背負わなくともよい罪業を重ねさせてしまっているのです。
          ◇
そのような自覚の下に、ご先祖様への感謝の心を新たにしてお盆を迎えたいものです。

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「させていただく」という心 平成9年3月10日
 

  日蓮聖人のお言葉

此の七日の内に一善の小行を修せば、
必ず仏果菩提を得べし。
                        (彼 岸 鈔)
「自分が住民だったらと思うと。」と、サイパンへの社員旅行をキャンセルし、三国町のボランティアに加わったのは愛知県江南市のAさん(四四歳)夫妻。岩場の汚染を目の当たりにし「地元民は本当に気の毒。・・・今私たちにできることで精いっぱい応援したい。」とバケツの洗浄などを行った。」 (平成9年2月5日・福井新聞 )
    ◇
 インターネットでたどると福井新聞には「ボランティア奮戦記」という欄が設けられ、連日この様な記事が掲載されています。タンカー「ナホトカ」からの重油流出関連の記事です。事故から二ヶ月になる現在でも、 各地のボランティアセンターには申込みが絶えません。

 このAさん夫妻のように、自分の楽しみをある程度犠牲にしても、困っている人の役に立ちたいと言う「ボランティア」が増えています。京都にいる当山の長男も、ゴム長などを用意してオイル除去の手伝いをしてきたと言っていました。
このようにボランティア活動が一般的になってきたのは、なんと言っても、《ボランティア元年》という語まで生んだあの阪神大震災の時のめざましい活躍がきっかけになっています。が、その底には、バブル崩壊を契機に私たちの価値観が変化しつつあることが挙げられると思います。
 ものの豊かさよりも、世の中の役に立っているという心の充実感を求める人が増えてきているのです。
   ◇
 ボランティアには、①多くの人々の幸せを目指す、②見返りを求めない、という二点が欠かせぬ条件となります。そして、これは正に仏教で説く「布施」の心です。
 「布施」とは、他の人に施すことです。しかし、それは余裕のある人が、無い人に対してしてあげるという性質のものではありません。むしろ、「受けていただいてありがとうございます。」と思うくらいの気持ちが必要なのです。なぜなら、「布施」とは、「布施行」であり、自分を人間的に高めるためにする修行.だからです。物を手放すことによって、私たちの内にある物欲や物への執着心から解放されることを目指すわけです。
  ◇
 三月十七日から春のお彼岸に入ります。
 仏教では、欲望や執着が燃え盛るこの世を、「此岸」(河のこちら岸、ー迷いと煩悩の世界)、それらから解放された河の向こう岸を、「彼岸」(悟りの世界)と呼んでいます。
 「お彼岸」とは、布施行などの実践によって、物欲や執着心を去り、悟りの世界を目指す期間です。
 皆様もどうかこの「七日の内に一善の小行を修」(日蓮聖人の言葉)して「仏果菩提」(迷いのない状態)を得られるようにお勤め下さい。

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(お会式法話)立教開宗とご法難 平成8年11月1日
 オーム真理教によって引き起こされた地下鉄サリン事件は、九人の死者と三千六百人余りの傷病者を出した凶悪な痛ましい事件でした。そして、その傷病者の中の多くの人は、肉体的な傷病は治っても、頭痛や悪夢などの精神的な後遺傷害に苦しんでいると、報道されています。
 
 また、あの阪神大震災の被災者の仮設住宅で、未だに自殺者が絶えないことや、子どもたちの心の傷が深くて、色々な障害が出ていることなども伝えられています。

 このように、私たちは生死の瀬戸際に立つような衝撃的な出来事に遭うとなかなか立ち直れません。人の心とは、それほど複雑でデリケートに出来ているのです。

 
 このようなことを思うと、私たちの宗祖日蓮聖人が、数多くの法難をものともせず法華経の広宣流布に勤められたことは、驚きに値することです。
   ◇
 聖人のご一生は、まさに迫害の連続でした。中でも、九死に一生を得るような大難にも四度も遭われています。これを 「四大法難」と言い、それぞれ「松葉が谷法難」、「伊豆法難」、「小松原法難」、「竜ノ口法難」と名付けられています。それらのいずれもが、助かったのが奇跡とも言えるような危機一髪の状態からの生還でした。

 前に記しましたように、人は生死にかかわるような怖い目に遭うと、なかなか立ち直れないものです。それを思うと、聖人ご自身「少々の難は数知らず、大事の難は四度なり。」と言っておられるように、この他にも数多い法難に遭われているのですから、ひるまずに法華経の弘通に当たられたその不屈の精神には恐れ入る外はありません。
   ◇
 しかも、これらの苦難の道は、日蓮聖人ご自身が自ら選びとられた道でもあります。
 建長五年(一二五三年)四月二十八日、聖人(三十二歳)は、故郷の清澄山・旭ヶ森の頂で、昇る旭に向かって、はじめて南無妙法蓮華経とお題目を唱えられ、法華経こそが、釈尊の説かれた真実の教えであると説き明かされました。
 これを以て、日蓮宗の創立とし、平成十四年(二〇〇二年)が、「立教開宗七百五十年」に該当することになる訳です。
  
 このことは、一見何でもないことのようですが、実は、大変な覚悟を要することでした。と言うのは、当時は念仏・禅・真言などが全盛で、幕府から庶民まで国中すべての人が熱心にそれらの信仰に帰依していたわけですから、その中で法華経が第一と言い出すことはすべての人を敵に回すことになるからです。
 ◇
 その時のみ心を、聖人は「一谷入道御書」の中で概ね次のように述べておられます。
  「もし、法華経を一言でも語り出したならば、自分だけでなく 父母・師匠などにも必ず迫害が加えられるであろう。自分も流罪・死罪になるかも知れない。しかし、言わなければ仏の敵になる。人々を助けないという無慈悲なことをすることになる。それならば言おう。どんな苦難にぶつかろうとも、命懸けで法華経を信じ続け広めてゆこう。」

 このような決意の下で踏み出した第一歩です。従って、聖人の遭われた数々の法難は、名誉や野心のためでなく、仏(教主釈尊)のご意志を受け継ぎ、この世を仏の世界に築きあげようという広大な誓願のためにこうむった法難であったということが分かると思います。
   ◇
 来る十一月十二日は、その宗祖日蓮聖人へのご報恩の第七百十五回の「お会式」です。

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