日蓮宗に関する事


日蓮宗に関する知識 日蓮聖人のご生涯と霊跡巡り
1 「井桁に橘」紋と宗章紋 1 日蓮宗の寺院
2 日蓮宗の本尊 2 小湊山誕生寺
3 「団扇太鼓」と「木鉦」 3 千光山清澄寺
4 岩本山実相寺
5 海光山仏現寺
6 小松原山鏡忍寺
7 寂光山龍口寺
8 塚原山根本寺
9 妙法華山妙照寺
10 身延山久遠寺
11 長栄山本門寺
12 正中山法華経寺
13 富士山本門寺
14 具足山妙顕寺
15 大光山本圀寺



15.大光山 本圀寺 平成19年11月1日
【十四】大光山 本圀寺
 現在は、京都市山科区御陵大岩町に所在する。(ここに移転したのは昭和46年で、それまでは京都六条ー現在の西本願寺の北側ーにあった。)代々勅願道場として栄え、身延山に対して西の祖山と呼ばれた巨刹であった。
 草創は、建長五(一二五三)年に宗祖日蓮聖人が鎌倉・松葉が谷に小庵を構え法華堂と称したことに始まる。その十年後に大光山本国土妙寺として創建された。
 幕府が鎌倉から京都に遷った貞和元年(一三四五)年に、光厳天皇より京都六条に東西二町・南北六町の広大な永代寺領を賜り、国祷護国の「本国寺」として移転した。「本圀寺」と改称したのは江戸時代で、水戸光圀との縁によるといわれる。
 このように京都にて、六条門流として妙顕寺の四条門流と双壁をなしてきた本圀寺が、寺院運営がうまくいかず山科の地に移ってしまったのは寂しい限りである。山紫水明の新地において再生を祈りたい。
 「立像釈迦像」・「三赦免状」・「立正安国論」は「三箇の霊宝」と呼ばれ、宗祖から日朗上人に譲り状とともに授与されたものである。他にも宗祖御真筆大本尊六幅・清正公大神儀など数多くの霊宝を格護する。               【写真:山科の地にて:大本堂を望む】

冒頭へ戻る


14.具足山 妙顕寺 平成19年7月10日
【十三】具足山 妙顕寺
 京都市上京区妙顕寺前町に所在する。元亨元年(一三二一)に、宗祖の孫弟子にあたる龍華樹院日像上人によって開創された。通称「龍華」または「顕山」と呼ばれ、関西随一の霊跡寺院である。
 日像上人は、現・松戸市の豪族平賀家に生まれた。六老僧の日朗上人は異父兄にあたる。六歳の頃から日蓮聖人に薪水給仕、経一丸と名付けられた。十三歳の時、宗祖の入滅に臨み、じきじきに枕元に呼ばれ、帝都開教を遺命された。 
 上洛後、辻説法により、たちまち人々の帰信を集めるが、他宗派の排斥を受け、三度都を追放されるという法難に遭う。
 しかし、ついに後醍醐天皇より皇居の御溝の傍に安居の地を賜り一字を建立した。これが当山の草創である。
 建武元年(一三三四)四月には、法華宗号の綸旨を賜り、勅願寺としての基盤を確固たるものとした。
 後、二世大覚大僧正妙実上人は、祈雨の修法の功によって後村上天皇より大僧正を授けられた。その際、当山には四海唱導の称、宗祖に大菩薩号、日朗・日像の二上人には菩薩号が、同時に下賜された。
 その後、比叡山の徒による焼き討ちなど何度か破壊・再興を繰り返し、天正十一年(一五人三)、豊臣秀吉の市街地整備に伴い現在地へ移転した。
 宗祖御真筆「神国王御書」(重文)、「妙顕寺文書」(重文)、他、本堂には宗門随一の三宝本尊を安置、祖師堂(三菩薩堂)に宗祖・日朗・日像の三像を祀る。【写真:本堂と桜】

冒頭へ戻る


13.富士山 本門寺 平成19年3月10日
【十二】 富士山 本門寺
静岡県富士宮市北山に所在する。永仁六年(一二九八)六老僧の一人・日興上人により建立された。往時は、寺域六万坪、塔頭二十五坊を擁した巨刹であった。
身延を離山した日興上人は、北山の地頭石川能忠の請によって重須の地に移り、南条時光等の助力をえて御影堂・垂迹堂・本堂の三堂を建立、本門寺と称した。そして、ここに重須談所を開き、門下を育成した。
明治の火災で諸堂の大半を焼失、寺域も二万五千坪に減少したが、徐々に往昔の威容を取り戻しつつある。
なお当寺には日蓮聖人を始め日興上人らの本尊・消息が多数格護されている。
第一の霊宝として安置されている「生御影御尊像」は、日朗上人がお像を拝して「わが師はいずれにおわすかと思いしに、当山におわせしか。」と御像の肩に抱きついて泣かれたというものである。
他に、徳川家康が捧持して危難を免れたという「鉄砲曼荼羅のご本尊」、将軍家綱の安産を祈った「子安のご本尊」、毎年土用の丑の日に村の厄病除けに村内を廻る「御大事のご本尊」等がある。                               【写真は、仁王門】

冒頭へ戻る


12.正中山 法華経寺 平成18年11月1日

   富木常忍入信の経緯

下総国八幡庄若宮の領主。聖人の母の親戚筋に当り、聖人の比叡山遊学の頃から資金援助していた。
寺伝によると、聖人は立教開宗の後、恩を報ぜんと若宮に行ったが、常忍は鎌倉へ出発したばかり、すぐ後を追い二子が浦で追いつき同船。そこでの法談で、常忍は最初は聖人の説に腹をたてていたが、やがて納得、聖人に帰依する。
宗祖入滅後、出家して日常上人となる。

【十一】 正中山 法華経寺
市川市中山に所在する。信者の筆頭的存在の富木常忍が自邸内に、文応元年(一二六〇)法華堂(後の法華寺)を建立したことに始まる。少し後に、中山の豪族大田乗明も館に持仏堂(後の本妙寺)を建立。この二寺が天文十四年(一五四五)合併し、法華経寺となった。
宗門唯一の祈祷根本道場であり、修法師の資格を得るための百か日の荒行が行われる。
また、鬼子母神信仰が有名。江戸期には「中山の鬼子母神」と呼ばれ、庶民の信仰が厚かった。
祖師堂・法華堂・四足門・五重塔などの建物は、すべて重要文化財に指定されている。
インド様式の聖教殿には、国宝の「立正安国論」や「観心本尊抄」、重文の御遺文五六巻・他が厳重に格護されている。
                              【右の写真は、重文・比翼入母屋造りの祖師堂】

冒頭へ戻る


11.長栄山本門寺 平成18年7月10日
61歳 弘安五(一二八二)年
     十月十三日 入滅  
九月八日 常陸の湯で養生するため身延を下山。
  十八日 武蔵国池上宗仲邸で休息
  十九日 身延の波木井氏に書を送り墓を身延に建てるように遺言。
十月八日 六老僧(日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持)を定め、後事を託す。
  十三日 辰の刻(午前八時)池上邸にて入滅。
【十】 長栄山本門寺
 東京都大田区池上に所在し、宗祖ご入滅の地に建つ霊跡寺院である。身延・久遠寺、中山・法華経寺と共に「三頭」、また、京都の妙顕寺、本圀寺と共に「五大本山」と称される。
 開創は、建治二年(一二七六)年に池上家の法華堂を開眼した時といわれる(諸説あり)。この地は、地頭・池上宗仲公が、宗祖ご入滅の後に、弟子の日朗上人に法華経一部八巻の文字数に合わせて、六万九千三百八十四坪を寄進したものである。鎌倉・妙本寺、松戸・本土寺と共に日朗上人にゆかりの深い寺となっている。
 徳川家康から寺領百石を寄進され、その側室・養珠院お万の方はじめ徳川家、諸大名の外護を受けて発展した。
昭和二十年、空襲にて諸堂を消失したが五重塔、総門、経蔵、宝塔は災を免れた。その後復興を重ねて現在に至っている。
 正面の階段は九十六段あり「此経難持坂」と呼ばれる。加藤清正の寄進という。
 毎年十月十二日、日蓮聖人のご命日の前夜(お逮夜)には「お会式」が行われ、数十万人の人で賑わう。
五重塔は都内で最も古いもので、二代将軍秀忠の援助を受け建てられたもの。また、大堂内の祖師像は、日蓮聖人の母妙蓮の遺髪で作られたという払子を手にしている。いづれも国の重要文化財に指定されている。  
                                    【右図:五重塔(重文)】

冒頭へ戻る


10.身延山久遠寺 平成18年3月10日
    53歳 文永一一(一二七四)年   身延に隠遁  
    61歳 弘安五(一二八二)年    身延を下山

53歳 三度目の諫めも受け入れられず身延に入山、門弟・信徒の教化に専念。
54歳 「撰時抄」を述作。
55歳 師の道善房死去。    「報恩抄」を述作。
61歳 下痢の病状悪化、衰弱 し身延を下山。

【九】 身延山久遠寺

山梨県南巨摩郡身延町に所在し、日蓮宗の総本山である。宗祖棲神の地で「祖山」と呼ばれる。
この地は、波木井郷といって南部実長の領地であり、ここに来たのも日蓮聖人に深く帰依していた実長公の勧めによるものだった。
六月十七日、用意された三間四面の草庵に住まわれ、法華経の根本道場とされた。この日を以って身延山の開創としている。ここで聖人は門弟・信徒の教化に当られ、多くの書状を残された。
弘安四年、十間四面の大坊が落成、十一月に開堂供養を行い「身延山妙法華院久遠寺」と公称する。
この約二百年後、第十一世日朝上人の時、山を切り開いて伽藍を西谷の草庵から現在地に移転し大復興を遂げた。そして、江戸初期に日重・日乾・日遠の三師が諸大名の帰依を得て興隆、宝永三(一七〇六)年日亨上人の代には皇室祈願所となった。
              写真: 祖師堂 明治14年東京より移築再建。左手奥は本堂

  主な建物・史跡

総門…街の入り口に位置し、「開会関」の扁額が掛かる。
三門…総欅造りで、間口 間・奥行7間あり、日本三大門の一つ。
菩提梯…三門から本堂へ続く二百八十三段の石段。佐渡の信者が先祖供養のために寄贈。
御真骨堂…聖人のご遺骨を奉安。
御草庵跡…身延最古の史跡。聖人が最初に住まわれた処。
祖廟…聖人ご遺命の御廟所。
祖師堂…明治 年再建。江戸の鼠山感応寺の材木で建立。
本堂…間口 b・奥行 bの大きさ。天上の龍の絵は縦横 b。
奥の院思親閣…身延山山頂にありロープウェイで七分弱で登れる。聖人が山頂から故郷を望み両親を追慕された。
敬慎院…七面山山頂に建ち、法華経の守護神である七面大明神が祀られる。

冒頭へ戻る


9.妙法華山妙照寺 平成17年11月1日
 51 歳 文永九(一二七二)年

      一谷に移される

 53歳 赦免され鎌倉に戻る
51歳 念仏者らと問答(塚原問答)。阿仏房ら入信。「開目抄」を述作。
52歳 「観心本尊抄」を述作。大曼荼羅を初めて著す。
53歳 赦免状が出て鎌倉に戻る。三度目の諫言が受け入れられず、身延に隠遁
  【八】 妙法華山妙照寺
佐渡市市野沢に所在。根本寺から移られた佐渡第二の謫居・一谷の霊跡である。日蓮聖人はご赦免までこの地に二年間住まわれて、「観心本尊抄」を著されるなど充実した日々を送られた。本堂は茅葺屋根で、落ち着いたたたずまいを見せている。
開山は日蓮聖人、第二世は真言宗から改宗し弟子となった日静上人である。
現在まで数度罹災し堂宇・霊宝を失った。現在の本堂・祖師堂・客殿・宝蔵・鐘楼・山門などの諸堂宇は、ほとんどが江戸時代の建立である。
什宝の祖師像は、鎌倉に帰還される宗祖が、別れを惜しむ日静上人に、自ら鏡に向ってお姿を書き写したものを与え、それを日静上人が彫刻したもので、「鏡の御影の祖師」と称せられる。
                      
                                             写真:落ち着いた佇まいの茅葺の本堂

冒頭へ戻る


8.塚原山根本寺 平成17年7月10日
50歳 文永八(一二七一)年
     佐渡流罪

50歳〜 51歳 斬首を免れた日蓮聖人は、 月 日に依智(厚木市)を発ち 日に佐渡の松ヶ崎に到着。塚原の      三昧堂に居を定めるが、そこは、「上は板間合わず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし」と     いうあばら家だった。ここで、聖人は多くの人を入信させ、「開目抄」を著した。
  【七】塚原山根本寺
佐渡市新穂大野に所在。佐渡配流の際の霊跡寺院である。
最初の居住地、塚原の三昧堂は、死体捨て場の荒地にあったあばら家であった。この堂を元として、日蓮聖人を開祖に仰ぎ、文永八年創立とする。
永らく真言宗弘樹寺の管理下に置かれたが、天正一八(一五九〇)年、京都・妙覚寺の日典上人(第十一世)が弘樹寺から分離し、正教寺として一寺とした。
十三世・日衍上人の代に、大檀越・味方但馬守の援助で寺観が整えられ、寺号も根本寺と改称した。
本堂・庫裏は十七世紀後半、祖師堂は十八世紀後半の建立である。

                                      写真:茅葺屋根の三昧堂

冒頭へ戻る


7.寂光山龍口寺 平成17年3月10日
50歳 文永八(一二七一)年
      龍口法難

50歳  9月12日松葉ヶ谷の草庵で平頼綱に捕らえられ、佐渡遠流と決定。
    それは名目で、 日の未明、龍ノ口刑場にて斬首されかかるが、突然、空に「月のごとき光物」が現れ、こ    の奇瑞に役人たちは恐れおののき、斬首を免れる。
    しかし、この時は、弟子や信者たちにも弾圧の手が伸び、日蓮門下は壊滅的な打撃を受ける。


   【六】寂光山龍口寺
 藤沢市片瀬に所在。龍ノ口法難ゆかりの霊跡寺院である。
 延元二年(一三三七)に、刑場跡に直弟子の日法上人が「敷皮堂」を建て、自身で彫刻した祖師像を安置したのが、龍口寺の始まりといわれる。「敷皮」とは、首の座に敷く敷物である。
 「寂光山」という山号は、「龍ノ口に日蓮が命をとどめおくことは法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」(四条金吾殿御書)に因む。
 敷皮石を納める大本堂、信州にあった養蚕御殿を移築した大書院、元治元年(一八六四)大阪の豪商鹿島屋某が百両寄進して建立された山門、明治 年建立の県内唯一の五重塔などがある。
 毎年9月 〜 日に龍口法難会が行われる。
                                 


                                       写真:大本堂(敷皮堂)・右上に五重塔が見える

冒頭へ戻る


6.小松原山鏡忍寺 平成16年11月1日
43歳 文永元(一二六四)年
     小松原法難


43歳  10年ぶりに帰省。息絶えたばかりの母を蘇生させる。その噂が広まり、信者増える。
   11月11 日、天津の工藤吉隆の招きで出かけた途中、安房国東条の郷松原大路にて地頭・東条景信らの襲撃を受ける。この時、弟子の鏡忍坊と急を聞いて駆けつけた工藤吉隆が殉死、日蓮聖人も眉間を斬られ、左腕を打ち折られる負傷を受けた。
     この法難の地に、鏡忍寺が建てられた。



   【五】小松原山鏡忍寺
千葉県鴨川市に所在。小松原法難ゆかりの霊跡寺院である。
法難のとき討ち死にした工藤吉隆の遺子は、出家して日蓮聖人の弟子となり長栄房日隆と号した。日隆は鏡忍房と父・吉隆(法号・妙隆院日玉)の菩提を弔うために法難の地に一寺を建立して妙隆山鏡忍寺と称した。
開祖は鏡忍房、第二祖に父の妙隆院日玉上人を仰ぎ、自らは第三祖となったといわれる。
山号は、後年、土地の名から「松原山」と替え、さらに現在の「小松原山」へと替えられた。
境内には、樹齢千年近い「降神の槙」が枝を茂らせ、寺宝に「太刀受け念珠」、「鏡忍房血袈裟」、『富木殿御書』、『日蓮聖人註画賛』(五冊)がある。



                            写真:鏡忍寺本堂

冒頭へ戻る


5.海光山仏現寺 平成16年7月10日
40歳 弘長元(一二六一)年
      伊東に配流(伊豆法難)
 

40歳 五月一二日、鎌倉・由比ガ浜より、伊豆伊東に配流。海上の俎岩(まないたいわ)の上に置き去りにされ、漁師・船守弥三郎夫妻に助けられる。
地頭の伊東八郎左衛門の病を治し、法華経に帰依させる。
    この時、海中より出現の立像の釈迦仏を献上される。聖人は、この像を生涯随身仏として捧持された。
41歳 「教機時国抄」、「四恩抄」を述作。
42歳 二月二二日、伊豆流罪を赦免



  【四】海光山仏現寺
 静岡県伊東市に所在。伊豆法難ゆかりの霊跡寺院である。山号・寺号は、地頭の伊東八郎左衛門より贈られた立像の釈迦仏が海中より出現したものであることにちなんでいる。ここの祖師像は、聖人の自作の像で、聖人は厄年にこの像を開眼して無事赦免になったところから、厄除け、厄病除けの祖師と呼ばれ、霊験頗るあらたかといわれる。また、解読不能の巻物の文書があり、「天狗の詑証文」として寺宝になっている。また伊東温泉七福神のひとつでもあり、毘沙門天が祭られている。

写真左:仏現寺祖師堂
   右:仏現寺の寺号の由来となった海中より出現した立像の釈迦仏

冒頭へ戻る


4.岩本山実相寺 平成16年3月10日
 37歳  正嘉二(1258)年
        実相寺で一切経を閲読
 
39歳  文応元(1260)年「立正安国論」を上書

36歳頃、鎌倉に大地震。その他、洪水・飢饉・疫病などの天変地異が続き、戦乱も絶えない。
37歳。  聖人はこれを憂え、その原因と解決策を探るべく実相寺の「一切経堂」に篭もる。
39歳。  「立正安国論」を起草し、執権・北条時頼に建白した。
      このために、他宗派の信徒に松葉ヶ谷の草庵で夜襲された。(「松葉ヶ谷法難」)


   【三】岩本山実相寺
 静岡県富士市岩本に所在。日蓮聖人が『立正安国論』の構想を練られたことで知られる寺です。
 平安時代に、延暦寺五代座主円珍が唐からもたらした、二組の中の一組である一切経を格護しており、、日蓮聖人はその閲覧のため二年間をこの寺に籠られました。
 祖師堂に安置されている日蓮聖人像は、「立正安国論」の草稿を手にするという珍しい姿です。
 山頂には、身延の七面山からの御分体をお祀りした七面堂があり、富士一円に信者をもっています。
 
   (注)一切経…経典やその注釈書などを含めた仏教聖典の総称。大蔵経ともいう。                               
実相寺の一切経堂

冒頭へ戻る


                                     
3.千光山清澄寺 平成15年11月1日

12歳  天福元(1233)年
       清澄山へ。道善房に師事。
16歳  嘉禎三(1237)年
      出家得度、蓮長と名乗る。
32歳 建長五(1253)年
      立教開宗。日蓮を名乗る。

12歳の時清澄山に登り、虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」と願を立てる。
18歳頃より、鎌倉・比叡山・三井・高野山で諸経・諸宗の教学を学び、末法の人々を救     済する教えは法華経であると確信する。
32歳、清澄山の旭ヶ森にて「南無妙法蓮華経」のお題目を唱え、立教開宗を宣言する。    「明らかなる〈日〉」、「清らかなる〈蓮〉」より「日蓮」を名乗る。
 
  【二】千光山清澄寺

 千葉県安房郡天津小湊町に所在。日蓮聖人が出家し、後に立教開宗された寺です。当時は天台宗で後に真言宗となりましたが、立教開宗の地としての由緒から日蓮聖人を慕う人々の参詣が絶えることなく、昭和24年についに日蓮宗に改宗しました。
 宝亀二(771)年不思議法師の開創と伝えます。房総第一の巨刹といわれ、現在の伽藍は江戸末期の建築です。
 境内中央には樹齢千年以上を数える神代大杉がそびえ、国の天然記念物になっており、この寺の長い歴史を物語っています。
 また、杉の樹上に産卵するモリアオガエルはキヨスミミツバツツジとともに県の天然記念物に指定されています。

冒頭へ戻る


2.小湊山誕生寺 平成15年7月10日
1歳 貞応元(1222)年  安房国でご誕生

 聖人は、二月十六日に、安房国(千葉県安房郡)の小湊という漁村にご生誕。
 伝によると、父は貫名次郎重忠、母は梅菊。日輪が体内に入る霊夢によりご懐妊したので、幼名を善日麿といい、後、薬王丸と改めた。 ご生誕を祝して、海辺に蓮華の花が咲き、鯛が群れ、館の庭に清水が湧出した、と伝える。

   【一】小湊山誕生寺
 日蓮聖人ご降誕の霊跡として知られます。建治二(1276)年、聖人の弟子・日家上人が聖人の両親の館跡に一宇を建立し、「高光山日蓮誕生寺」と命名しました。 当時の寺地は、大地震等で陥没し、今では妙の浦という海中になってしまいました。
 現在の伽藍は、水戸光圀の庇護を受けて宝永年間に再興されたものです。このとき十万石の格式を与えられ、現在の山号・寺号に改められました。
  祖師堂は十八間四面の大伽藍で、天保三(1832)年から十年間かけて建てられたものですが、支柱の立派な欅柱五十四本は、江戸城に運ぶはずのものが船が途中難破して流れ着いたものを、誕生寺で貰い受けたといわれます。 他、多くの建物とともに誕生水の井戸や、聖人十二歳のご幼像・善日麿銅像などもあります

冒頭へ戻る


1.日蓮宗の寺院 平成15年3月10日
    日蓮宗の寺院は、全国に約四千六百ヶ寺ありますが、宗憲によって@祖山、A霊跡、B由緒寺院、C一般寺院の四種に区分されています。
祖山・久遠寺の(左)本堂と(右)祖師堂

    祖山は、山梨県身延町にある身延山久遠寺で、本宗の総本山です。その寺の法灯を継承する人(住職)を「法主」といい、現在は藤井日光猊下がその任にあります。
    霊跡、由緒寺院とは、日蓮聖人一代の重要な遺跡、宗門史上顕著な沿革のある寺院のことで、その伝統によって大本山、本山の称号を用いることが許されています。
    現在全国に霊跡は十三ヶ寺、由緒寺院は四十二ヶ寺あり、残る四千五百余ヶ寺が一般寺院です。
     茨城県内には、由緒寺院が一ヶ寺と五十三の一般寺院、十七の教会・結社があります。
    県内唯一の由緒寺院は、常陸太田市にある靖定山久昌寺で、水戸光圀が母・久昌院靖定の菩提を弔うために建てた寺です。
                      ◇
   特に、霊跡は日蓮聖人が直接足跡を残されたところが多いので、祖山・霊跡をたどることによって聖人のご生涯を偲ぶことができると思います。
   次回からは、次のような順に祖山・霊跡巡りをし、宗祖の歩みをたどります。

@誕生寺(千葉)    ご誕生の地                     A清澄寺(千葉)    出家得度・立教開宗
B実相寺(静岡)    立正安国論構想              C仏現寺(静岡)    伊豆法難
D鏡忍寺(千葉)    小松原法難                   E龍口寺(静岡)    龍ノ口法難
F根本寺(新潟)    佐渡塚原配所                 G妙照寺(新潟)    佐渡一谷謫居
H久遠寺(山梨)    晩年棲・御廟所                I池上本門寺(東京)    ご入滅の地
J法華経寺(千葉)        直筆聖教格護          K北山本門寺(静岡)    日興師開創
L妙顕寺(京都)        日像師帝都弘通          M本圀寺(京都) 妙顕寺と並ぶ京都の大本山

冒頭へ戻る


  
3.「団扇太鼓」と「木鉦」 平成14年11月12日
   二つとも、日蓮宗独自の法具ですので、その歴史などに触れてみます。

        「団扇太鼓」
   お題目を唱えたり、お経の要文を読誦するときに、調子を整えるために用い、形状が団扇に似ているためにこの名称があります。
   
 
その起源は、はっきりしませんが、安藤広重の版画に描かれていることから、江戸時代中期にはかなり普及していたと思われます。
   起源については、次のような言い伝えもあります。
   念仏宗を信仰していた僧侶が、日蓮聖人のお説教を聴いて改宗して弟子になった。念仏を唱える時にはカネを叩いて調子をとっていたが、お題目を唱える時は何もなくてどうも寂しい。そこで太鼓を叩いてお題目を唱えて見たところ大変具合がよいので、日蓮聖人の許しをいただいて、太鼓を叩いてお題目を上げるようになった。その後、改良が加えられて現在の形になった、というものです。
   お題目の声が、団扇太鼓のリズムに乗って街頭を流れる時、パフォーマンスとしてもこれに及ぶものはないでしょう。

        「木鉦」
   木魚と同じく、読経の際に拍子をとるために用います。木魚が、魚形から変形したものであるのに対し、木鉦は念仏門で用いる敲き鉦からヒントを得て考案されたものです。
   明治十年代の後半に、名古屋地方で作られたものが、身延に伝わり全国に広まったといわれています。
欅・楓・桜などの材を用い、硬くキレのいい響きを出すので、修法の際などのお経の早読みに合うため多用されるようになりました。木鉦が作られる前は、日蓮宗でも木魚を使っていたわけで、日蓮宗のお経は木鉦でなければいけないと言うわけではありません。
   法要の際は、落ち着いた音の木魚を、修法など早読みの時は木鉦を、と使い分けるのも一法です。

冒頭へ戻る


2.日蓮宗の本尊 平成14年7月10日
  ご本尊とは、私たちが、信仰し、礼拝し、帰依する根本の対象です。

  日蓮宗では、「久遠の本師釈迦牟尼仏」を本尊と定めています。久遠の昔から我ら衆生を教化し続けて来られ、これからも未来永劫に教えを説き続ける大恩教主の仏様ということです。
       ◇
  このご本尊を表わす形態に、「大曼荼羅」「一塔両尊四士」などがあります。
  「大曼荼羅」は、日蓮聖人が初めて考案されたもので、お題目を中心に、法華経を説く如来、それを広める菩薩、その方々を守護する天部の神々などの名を連ね、全体で教主釈尊の救済の世界=法華経の浄土「霊山浄土」を表わしています。
  「一塔両尊四士」は、大曼荼羅の最上段の部分を仏像の形で表わしたもので、当山の本尊もこの形態をとっています。中央の題目の塔の左右に釈迦・多宝の二仏を配し、この二尊の脇士として、上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩が仕える姿を形象化しています。
       ◇
  一般の家庭の仏壇には「大曼荼羅御本尊」を本尊として祀るのが普通です。日蓮宗では、弘安三年に日蓮聖人が認めら
右図は大曼荼羅
左図は一塔両尊四士
れた「臨滅度時の御本尊」を推薦しています。(中央にお題目が書写されていても日蓮宗以外のご本尊は本物とはいえません。)
  以前に、仏壇とはご本尊(仏様)をお祀りする所で、位牌だけを祀っているのでは仏壇とはいえないと書きました(平成十二年七月十日発行・第十二号)。
  各家に経廻りに伺うと、まだご本尊が仏壇にお祀りされていないところが見受けられます。これを機会に、是非仏壇には「大曼荼羅御本尊」をお祀りください。

冒頭へ戻る
 

1.「井桁に橘」紋と宗章紋 (日蓮宗の紋章) 平成14年3月10日
(上)「井桁に橘」紋
(下)宗章紋     
当山を始め日蓮宗寺院には、本堂の屋根や正面扉などによく「井桁に橘」(図1)の紋章が使われています。
なぜかというと、この紋章が日蓮聖人の家紋だからです。日蓮聖人の出自は貫名氏といわれ、貫名氏の家系は井伊家から分かれたといわれます。そして、その井伊家の家紋が「井桁に橘」と言うわけです。
井戸から湧き出す清水と、香り高く年中緑の葉を保つ橘とを組み合わせた「井桁に橘」紋は、永遠の生命を象徴するものとして、日蓮宗の定紋となっています。(「中央教学研修会講義要旨
第2号・『イゲタ』と『タチバナ』の意味について」)

一方、「宗章」紋(図2)は、「井桁に橘」紋ほど一般には馴染みがありませんが、「日蓮宗宗憲」には「本宗の徽章を宗章という」と規程されています。
これは日蓮聖人の名に因んで、日輪と白蓮華を図案化したものです。そして、「日蓮」という名については、聖人ご自身、「明らかなること日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。…。日蓮また日月と蓮華の如くなり」(四条金吾女房御書)と述べられています。
また、この紋章は聖誕七百年(大正十年)記念として考案されたもので、意匠登録されて、旗や袈裟などの布地の模様などに使われています。

冒頭へ戻る


メール アイコン
メール
トップ アイコン
トップ


サンド