お寺を知ろう (1)

当山安置の仏像など その他の事
1 三宝尊 1 総代さん・世話人さん紹介
2 鬼子母神 2 ゴジカイ?ゴジョカイ?
3 妙見菩薩 3 とても意味深い仏教用語
4 四大菩薩
5 文殊菩薩・普賢菩薩
6 大黒天
7 摩利支天
8 三十番神
9 水子観音
10 四天王
11 祖師像
12 十三重塔・題目塔
13 歴代墓所
14 無縁供養塚
15



14.無縁供養塚 平成13年11月1日
無縁供養塚とは、無縁仏を供養する塚です。
無縁仏とは、一般に供養してくれる親類縁者のない霊魂のことですが、戦死・事故死・自殺など横死者の霊魂なども含みます。そのような霊をすべて含めて「法界万霊」・「無縁一切精霊」などといいます。そして、この無縁仏を供養する行事が、施餓鬼・川施餓鬼ということになります。
各寺院にある無縁供養塚は、縁故者の絶えた檀家の墓碑を一か所に集めて供養するものです。
供養

当山のものは、境内の南側、鬼子母神堂の裏手にあり、間口四・八b、奥行六・七bで、四方から墓石を拝めるようにピラミッド状に六段に積み上げたものです。そして、その頂上に供養塔が立っており、その正面には「南無妙法蓮華経 無縁供養塔」と刻まれています。
約二五〇基並んでいる墓石の殆んどは、当山が千葉県関宿町台町にあった時の墓地に残されていたものを、まとめて移転したもので、宝永・正徳・享保など江戸期のものが多く、武家のものが大部分を占めます。
これらの墓石の前に立ち、中でも、そこに刻まれた夫婦の法号・俗名などを眺めていると、江戸時代の武家の暮らしやお城での勤務ぶりなども想像されて興味の尽きないものがあります。
法要参詣の節は、無縁供養塚にも是非お参りください。

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13.歴代墓所 平成13年3月10日

 本堂の左手奥に当山の歴代上人の墓所があります。
 正面に総高三・六メートルの卵形の石塔が立ち、「南無妙法蓮華経 當山歴代之墓」の文字が刻まれています。昭和五十八年、先代住職の代の建立です。
 その向かって右隣が十五世好善院日良上人、左隣が十九世弘法院日正上人の墓です。墓誌によると、日良上人は、緑谷姓で、明治二七年に当寺を関宿から移転した人です。俳諧の嗜みもあったようで、「曳杖もかろし都へ春の旅」という辞世の句が刻まれています。
 日正上人は、稲田・円光寺の開山をはじめ、他の寺院・教会の設立に関わるなど、弘法院の名に相応しい事歴が記されています。現住職の曽祖父に当たります。
 右側には墓誌が立ち、次のごとく「法清山實台寺歴代」の名が刻まれており、その後に先代の二十世本地院日周上人の事歴が記されています。

  開山 久遠成院日親上人
 D真乘院日從、F智圓院日満
 G感隨院日恵、J政善院日法
 K尊光院日善、L合掌院日道
 M要詮院日愿、N好善院日良
 O良心院日温、P慈照院日仙
 Q本光院日台、R弘法院日正
 S本地院日周
     (二、三、四、六、九、十世の各聖の法号は不明です。)
  左側には、関宿から移した第五、七、八、十一、十四世の墓石が並んでいます。
  第七世の墓石正面には「中興開基 智圓院日満聖人」、側面に「壬生飯塚 妙典寺十二世」とあり、宝暦四年(一七五四)の遷化です。「中興開基」の文字から、本堂建立などの功績があった人と推測されます。 
  このように墓誌からは、色々なことが読み取れます。参詣の折には、ぜひ歴代墓所にもお参りし、お寺の歴史に触れて見てください。

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12.十三重塔・題目塔 平成12年11月1日
十三重塔
(左)十三重塔    (右)題目塔

 本堂に向かって参道の右側に、鬼子母神堂に向かい合って、十三重塔が建っています。
 平成四年、先代住職の時の建立で、一般に見かけるものより大きく、礎石を含めると五・八メートルの高さがあり、寺観を引き立てるのに役立っています。
塔と言えば、五重塔が一般で、下から地水火風空の五大(主要元素)を表し、三重塔、 十三重塔などはその変形とも言われます。
  十三は十三仏を表すという見方もありますが、中国には、十五層や十六層などもあることを考えると、いろいろなパターンの一つと考えてよいと思います。
 また、塔には、「仏舎利塔」やお経を納める「経塔」がありますが、当山のものは「記念塔」に属します。

題目塔 日蓮宗の寺院の参道入り口や山門前には、たいてい題目塔が建っています。
これは、一つには、日蓮宗の寺の存在を示す目印として、もう一つには、世界平和と法華経の広宣流布を祈念する碑としての役割をもっています。
 当山の題目塔には、正面に「お題目」、左右の面には、祈念の語句が刻まれています。
 そして、背面には「慶應二丙寅年四月宗建日/高祖大士第六百遠忌報恩謝徳 開眼主 日道/自他施主之面々現安後善」とあります。

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11.祖 師 像 平成12年7月10日
戸外(本堂前)の祖師像
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 本堂の前、向かって右側に、石造の祖師像が、安置されています。このお像は、以前は本堂の正面近くにあったのを、平成四年に台座を新しくし、二メートルほど北側にお遷ししたものです。

  ◇
 お像の背面には「宗祖六百遠報回/壽量品壱萬巻/十五世 日良」の文字が刻まれており、宗祖の六百遠忌(明治十四年)の報恩事業として建立されたことが分かります。
「壽量品壱萬巻」とあるの 
は、寿量品一万巻の書写行をし、納経したということでしょうか。とすれば、一大事業だったことだろうと偲ばれます。
  ◇
台座の裏には、由来書きがあり、
「明治二十七年、当寺が関宿から移転した時、事情によりこの祖師像を残してきたところ、隣接地にあった実相寺の住職の夢枕に毎夜このお祖師様が現れ、実台寺に連れて行って欲しいと訴えたので、少し遅れて当地にお遷ししたと言い伝えられている。云々」とあります。
  ◇
また、祖師像の形としては、両手に経巻を広げ持つ「読経形」と、右手に中啓(または、払子)、左手に経巻を持った「説法形」などが普通ですが、当山のお像は「合掌形」となっています。
(ちなみに、当山の本堂内の 祖師像は、「説法形」です。)

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10.四天王(多聞天・持国天・ 広目天・増長天) 平成12年3月10日
左から、多聞天・増長天・広目天・持国天
「徳川の四天王」、「和歌の四天王」など、その道に勝れた四人に対して、よく「〇〇の四天王」という呼び方がなされます。
 ◇
この四天王とは、仏教を守護する四人の神様のことです。
仏教の宇宙観によると、世界の中心に須弥山という山があ上図左より、
  多聞天・増長天・広目天・持国天り、その山頂に帝釈天という神様が住んで、外敵から仏教を守護しています。
この帝釈天の下で四方を守る役目を負っているのが四天王で、多聞天(北方を守護し、黒色)、持国天(東方・青色)、広目天(西方・白色)、増長天(南方・朱色)の四神です。
 ◇
四天王の中でも、一番広く信仰されているのが「多聞天」です。仏教の守護神として、仏様が説法する道場には必ず来て説法を聞いていたので「多聞」(インドの原名「ビシュラバナ」)と名づけられたと言うことです。
単独の神としても信仰され、その時は、その音をとって「毘沙門天」と呼ばれます。京都の真北に位置する鞍馬寺の毘沙門さまは、御所の守護神で、 北方から御所を守護します。
上杉謙信は、戦勝のための守り本尊として毘沙門天を信仰しました。
また、福の神として七福神の一人にも加えられています。
 ◇
四天王像は、それぞれに憤怒の相をし、「天の邪鬼」と呼ばれる邪鬼を足下に踏みつける形です。そして、須弥山の中腹の四方を守護することから、寺の須弥壇の四方に安置されます。
日蓮宗では、大曼荼羅ご本尊の配列に従い、左上に毘沙門天、右上に持国天、右下に広目天、左下に増長天というように、安置される位置が他宗とは異なります。

 当山の四天王像は、昨年十二月に檀家のKさんより奥様の追善菩提のためにご寄進いただいたものです。
 「星祭」の際に皆さんにご披露し開眼供養を行いました。

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9.水子観音像 平成11年7月10日
 山門を入って直ぐの右側に、水子観音像が安置されています。
 昭和六十年十一月、先代住職の時に、多くの檀信徒の方々からの強い要望によって建立されたと聞いていますが、そのためか毎日のようにお花やお供物が供えられ、線香の煙が絶えません。
 また、毎年五月十七日を水子観音例祭と定め、塔婆を供養し法要を行っていますが、この日にも多くの参列者があり、本当に観音様を安置した甲斐があったと思っております。
 水子とは、流死産した胎児のことで、流産することを〈水になる〉と言ったことからの言い方と思われます。
 仏教の教理によれば、母親のお腹に受胎した瞬間が生命の誕生と考えますから、水子といえども生命の尊厳という点からは普通の人と同じということになります。
 従って、普通の人と同じように成仏を祈り、同時に、再び同じ悲しみを繰り返さぬよう、そして、次に生まれ出づる赤子が丈夫に育つようにと観音様にお願いする、…これが、水子を供養するということなのです。
 一部の寺や教団では、供養しないと《水子の霊の祟りがある》などと言って、高額のお布施を要求する所もあるようですが、そのような脅しに乗ることはありません。
 観音様(正式には、観世音菩薩)は、お金の多少によって救いの手を差し伸べるのではありません。人々が至心に祈り、お願いする声(世音)をお聞きになって(観じて)、悩み苦しんでいる衆生を救おうという自らの菩薩行として救ってくださるのです。

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8.三十番神 平成11年7月10日

日本国中に祀る三十の善神のことで、これらの神々が、一ヶ月三十日の間、毎日、順番に国家と人々を守ってくれるといわれます。
例えば、一日=尾張・熱田大明神、二日=信濃・諏訪大明神、三日=攝津・広田大明神、…と言う具合です。
神様が仏教の守護神とは?と変に思われるかもしれませんが、これは、本地垂迹説といって、仏様が日本の人々を救うために、その場にふさわしい神様の姿となって現れるという思想に基づくものです。
三十番神信仰は、天台宗に発しますが、今では、日蓮宗独自の信仰となっており、日蓮宗の過去帖には各ページにお題目と共にその日を守護する神様の名が記されています。
※「当山安置の仏像」は、今号にて終了します。

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7.摩利支天 平成11年7月10日

古代インドの民間で信仰された天部の神で、後に仏教に取り入れられました。
像の姿は、天女形と猪の背に乗る忿怒形があり、中世には忿怒形の摩利支天が武士の守護神として信仰されたようです。(当山安置の摩利支天像も猪の背に乗る忿怒形です。)
日蓮聖人は、法華経の信仰者を守る神として信仰されました。足利時代、焼けた鍋を頭に被せる拷問を受けたといわれることで有名な日親上人も、この摩利支天を信仰していたお蔭で、そんな拷問にも拘らず、その容貌は変化せず、一毛も損じなかったと伝えられています。
江戸時代には、大黒天、弁財天とともに三天と称され、蓄財と福徳の神として、主に商工業者に信仰されました。

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6.大黒天 平成11年3月12日

一般に、恵比寿大黒と併称され、七福神の筆頭のめでたい神さまとして祀られます。
 頭巾をかぶり、ふくよか円満な笑顔で、左手に袋、右手に打ち出の小槌を持って米俵に乗った姿は、「大黒さま」として小さな子供にまで知られ、親しまれています。
 大黒天は、元々インドでは、文字通り闇黒で、憤怒の形相をした戦闘の神でした。人の肉を食うダキニという鬼神を降伏させたとの話もあります。
 それが、幾多の変遷を経て、室町時代に神仏習合の流れの中、オオクニヌシノカミ(大国主神)の大国をダイコクと読む音の共通から、大国主神と同一視されるようになりました。
 このような経緯の下、大黒天は商家では商売繁盛の神として、農家では作神・田の神として信仰されています。
 ここから、収穫の祝いを「大黒上げ」とも言い、また、鼠が大国主神を救ったという神話から、子の日が縁日とされ「甲子講」を行う風もあります。

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5.文殊菩薩・普賢菩薩 平成10年11月1日


文殊菩薩
文殊菩薩は獅子に乗りお釈迦様の左脇に、普賢菩薩は白象に乗りお釈迦様の右脇に、お仕えするほとけ様(脇侍仏という)として祀られます。
脇侍仏とは、仏様の徳を表わすものです。文殊菩薩は仏様の《智恵》の徳を表わします。(一般に、 「文殊の知恵」といわれる。)
一説には、インドに実在した人で“第二の仏陀 ”と崇められたともいわれます。獅子に乗るのは、獅子は百獣の王で何も怖れるものがないように、文殊の知恵にすがれば、何事も明らかにされることを意味しています。
他方、普賢菩薩は仏様の《行》の徳を表わします。「普賢」は「偏吉」とも訳され “みんなをしあわせに”という意味で、仏様の《慈悲行》を代行します。
「法華経」(普賢菩薩勧発品第二十八)には、白象に乗って法華経の信仰者を守護に来てくれると説かれています。
当山の両菩薩像は、正面須弥壇に安置されており、今回の七五〇記念事業の際に二人の檀家さんからご寄進いただいたものです。

(市川智康著「仏さまの履歴書」を参照しました)
普賢菩薩

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4.四大菩薩 平成10年7月10日
上行・無辺行・浄行・安立行の四人の菩薩をいいます。
この度の七五〇事業の落慶を記念して、当山の四人の総代さんより寄進されたもので、本堂須弥壇の三宝尊(一塔両尊・ご本尊)の両脇に二体ずつ安置されました。この形を「一塔両尊四士」といい、ご本尊をお祀りする代表的な形態の一つです。(写真上 参照)
併せて、文殊・普賢の両菩薩もご寄進いただき、当山の須弥壇の荘厳も立派に整いました。
法華経・従地湧出品第十五によると、「娑婆世界の大地が震え裂けてそこから無数の菩薩たちが湧き出した(従地湧出)。その中の、上位の四人が四大菩薩である。そして、この菩薩たちは、法華経とお題目を末法の世の中に弘めるために、お釈迦様によって派遣された。」とあります。
日蓮聖人は、ご自身の行跡が上行菩薩の記述と多くの点で附合する所から、自らを「上行菩薩再誕なるべし」と自覚されました。

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3.妙見菩薩 平成11年3月10日
妙見菩薩写真  北辰(北極星)を神格化した神様で、妙見尊星王・北辰尊・北辰妙見菩薩などの別称でも呼ばれます。菩薩の名が付いていますが、厳密には天部に属する神様
です。
 諸の星の王として、「天上から人間の所業の善悪を見て、その人の延寿・禍福を 司る。」ところから、星祭りの行事の際にはご宝前にお祀りして法要を行います。
 「妙見」の名は、七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経に、「我は北辰菩薩、名づけて 妙見と曰ふ。今、神呪を説いて諸の国土を擁護せんと当山の妙見菩薩欲す。」とあ るのによります。
 ここから、国土を守り、災いをなくし、敵を退け、人々の福寿を増す功徳を与えてく れる神様として信仰を集めています。
 また、「妙見」が、「麗妙なる容姿」の意に解されて、役者・花街の婦女にも尊信さ れています。

 形像(当山安置の像)
 亀蛇(玄武)の上に立ち、右手に剣、左手に玉(日輪?)を持ったお姿です。玄武に 乗っているのは、玄武が北を表す神獣であることからと思われます。
  本堂の左側の祭壇に安置されています。(上手参照)

妙見信仰の寺としては、能勢の妙見さん(大阪・日蓮宗真如寺)が有名です。 将棋の「坂田三吉」や、その女房の「小春」の信仰は  よく知られています。

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2.鬼子母神 平成9年11月1日

当山安置の鬼形鬼子母神
「子授け・安産・子育て」の神様として信仰を集めています。
当山安置の天女像鬼子母神

法華経(陀羅尼品)に、法華経の信者を護ってくれる神様として説かれているので、特に日蓮宗で厚く信仰されているのです。
当山では、天女像と鬼形像の二体の鬼子母神像をお祠りしていますが、 現在、お堂を改築中ですので、二体とも本堂の左側祭壇に安置しています 今年中に新しいお堂にお遷しする予定です。
1.名称
元の名は「ハリティ」ですが、鬼神王の妻で、一万(五百、千とも言われる) の鬼子の母なので「鬼子母」と呼ばれます。
2.鬼子母神の話
ハリティは、インドの王舎城の街に来ては幼児を取って食べていた。お釈 迦様はそれを諌めるためその末の子を隠してしまうと、たいへん嘆き悲し んだ。
そこで、お釈迦様は「沢山の子の中の一子ですらおまえはこのように悲し む。おまえに子を食われる親の気持ちはどうか。」と諭されたので目が覚 め、以後、仏教に帰依し子供擁護の神となった。
3.形像
天女像…「子授け・安産・子育て」の神。
左の懐中に一児を抱き、右手には吉祥果(多くはザクロの実)を持つ。 ザ クロは子福と豊穣を表します。
姿は、端麗豊満。鬼形像…「破邪調伏」の神。憤怒形で、関東では総髪 合掌形(関西では有角抱児形)。
祈祷の本尊である。
当山の鬼形鬼子母神は、先代住職が大荒行の再行に入行の際に勧請し たものです。 毛髪は、檀信徒の女性から奉納いただいたものを植毛したと 聞いています。

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1.三宝尊(「一塔両尊」のご本尊) 平成9年11月1日
 当山のご本尊で今回より、何回かにわたって当山に安置(お祠り)している仏像に ついてお話しします。来寺の折には、是非お参り下さい。
本堂の須弥壇の中央上段にお祠りしています。
日蓮宗の本尊は、法華経に説かれる「久遠実成本師釈迦牟尼仏」(無限の生命をも った釈迦仏)ですが、これをお祠りする形態がいくつかに分かれます。
その一つが、「一塔両尊」と呼ばれる形態です。これは、中央の塔の中に「南無妙法 蓮華経」のお題目を記し、その左右に釈迦牟尼仏と多宝仏を配した形です。
(挿し絵参照)

法華経第十一番目の見宝塔品という中で、「大地から突如、宝玉をちりばめた美しく 大きな塔が出現して空中にとどまる。その中に、多宝仏がおいでになって、釈迦仏の 説かれた教えが真実であることを証明され、座を空けて釈迦仏を呼び寄せられる。そして、釈迦仏と多宝仏は塔の中に並んで坐られる。」という場面があって(「二仏並坐 」という)、それを形にしたものが一塔両尊です。

この他の本尊の形態には、「大曼陀羅」・「一尊四士」などがあります。

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3.とても意味深い仏教用語 お斎=おとき 平成9年7月10日
私たちの周りには、あまり気付きませんが、たくさんの仏教用語が溢れています。いくつか挙げてみま すと、 挨拶・愛敬・ありがたい・有頂天・行儀・玄関・奈落・皮肉・迷惑・面目……… と、こんなものまでと思う言葉があります。
    * *
 ついでに、「カルピス」も仏教語から出ている名前だというお話をしましょう。
 『涅槃経』の中に、牛乳を搾って精製し、だんだんおいしい味に変えていくという話が載っています。
最初は搾ったばかりの牛乳の味。それを少しずつ濃くしていくと、五つの味に変わると言うんです。そ の中の一番おいしい味のことを“醍醐味”と言い、それをインド語では“サルピス”と言います。サルピ スのようにおいしい牛乳にカルシウムを加えた物、それが“カルピス”というわけです。
    *  *
 さて、お「斎」ですが、「斎」の字は、「さい」と読むのが本来です。元々インドのサンスクリット語では、 「身心を慎んで清浄な生活をする」という意味で、「午後には食事をしない戒律を守る」ことでした。そこ から「食すべき時の食事」ということで、正午以前の食事を「斎(とき)」と称するようになったのです。
 そして徐々に、僧へ施す食事、肉食をしない=精進料理、と意味が広がり、現在では「仏事の際の 食事」を指す名称になりました。

* 実台寺のお斎 *
 当寺では各行事の際に、世話人さんのお手伝いをいただいてお斎を用意しています。
 材料を提供して下さる方、前日の野菜切りや味付け、当日のお給仕をして下さる方等、とても多くの 方たちの協力で成り立っています。
 「お寺でご馳走になるのは悪いから」と言って食事をしてから来る方もいますが、「お斎」は仏教徒と 下さい。それに、「とてもおいしい」となかなか評判なのですよ。 して大切なご供養・精進です。どうぞ行事に参加される時は、少し早めに来て「お斎」を召し上がって

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2.護持会ってなに? 平成8年11月1日
 ゴジカイ? ゴジョカイ?
 ゴジカイ→護持会,
 ゴジョカイ→互助会。
 さあ、お寺の会はどちらでしょうか。もちろん「護持会」ですね。時々、“互助会”と間違える人もありますので・・。檀家さんなら、皆さん会員になっている「護持会」について、今回はお話ししましょう。
  会計報告で分かる護持会
 護持会の役割は、大きく分けて四つあります。毎年八月にお渡しする「護持会会計報告」の各項目からその役割が見えてきます。それでは、その項目に注目して役割をお話ししましょう。
(1)第一の役割は、実台寺の維持・経営です。
 火災保険料や、植木の手入れ、除草の費用(整備費)役員会の費用(会議費)などを支出して、建物や境内の維持・お寺の諸行事を支えています。
(2)二番目は、会員相互の信仰増進、並びに親睦のための各種行事への支出です。
  檀信徒研修会参加のための会費や交通費(研修費),それに、会員のご家族にご不幸があった時,「実台寺護持会」として香典を出すのがこれに当たります。
(3)宗務院及び宗務所への納入金に対する支援が第三の役割です。
 お寺の規模によって決められる本山納付金(宗務費),県内の諸活動に使われる、県宗務所への納付金(管内費),それに、お寺同士のお付き合いも、お祝い(表賀)ご不幸の際(香典)に,護持会が支援しています。
(4)四番目の役割は、中央及び地方檀信徒協議会の議決事項の実施です。
 島原の大噴火・奥尻島の津波・阪神大震災などのとき、日蓮宗の信徒として募金活動をしようなどという決定がなされた時は、護持会費の中から支出しています。また、町社会福祉協議会・さかい町民の会へも賛助団体として賛助金を出しています。
 檀家さんあってのお寺
 こうして見てくると、お寺の建物などの外側も、お寺の活動という中身も、すべて護持会が深くかかわっていることが分かります。
 この護持会費は、一軒平均約三千円で、町内は世話人さんに集めていただき、その他は直接納入していただいてます。
 今後ともよろしくご協力下さい。

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1.総代さん・世話人さん紹介 平成8年7月10日
 皆さんは、お寺で行事のある時、受付をしてくれたり、食事の用意や接待をしてくれている方々を目にしていますね。
お寺の運営に様々な形で協力し奉仕して下さる、お寺にとってとても大事な方々です。初めての寺院便りですので、改めてご紹介したいと思います。
〔総代とは〕
 お寺にとって重要な事柄、例えば、本堂の新築や、土地の入手、譲渡に関することや、後継者のことなど、お寺の存続に直接関わるような事について、住職と一緒になって考えます。また、大きな行事や特別な行事の時、計画の段階から参加して、考えてくれています。
 そして、これが一番大事なことですが、檀信徒の先頭に立って信仰のリーダーになってくれているということです。

 実台寺には、4名の総代さんがいます。順次ご紹介しましょう。
☆五十嵐 巌さん
 境町松岡町在住。五十嵐家は、この実台寺が関宿町から移転してくるに当たって尽力された、当寺にとって最も縁故の深い檀家です。以来、代々筆頭総代として奉仕して下さっていますが、当代の巌氏も、昭和十八年から五十余年間総代を務め、護持会発足以後は、護持会長も兼務してくれています。この功により、平成五年に宗務院より三級法労賞を授与されています。
☆関根 清さん
 境町住吉町在住。昭和四十年代から総代を務めてくれています。また護持会の会計としても長年奉仕してくれています。

☆山下 俊さん
 境町住吉町在住。先々代喜三郎さんからの篤信の家柄で、当代俊さんまで三代にわたって総代を務めてくれています。
☆酒井英一さん
 境町住吉町在住。現住職と従兄の関係にあたり、公私にわたってお寺のために奉仕してくれています。
〔世話人とは〕
 総代と協力し、お寺を支えてくれる方々です。護持会費を集め、お寺が出す各種のお知らせを配布してくれます。
 また、行事の日には、朝早くから出仕して、男性は境内の飾り付け・後片づけや受付の仕事を、女性は、お斎の用意とお給仕を担当してくれます。このように、お寺にとって本当に大きな存在です。そのお名前を紹介しましょう。(五十音順・敬称略)
 
 
☆粕谷康夫      ☆北島幹夫
 ☆倉持定雄     ☆倉持藤一
 ☆相良しげ     ☆関 ふさ
 ☆田上朝男     ☆田上幸男
 ☆田中茂蔵     ☆中井俊雄
 ☆仲村三子     ☆野口信夫
 ☆長谷川正男    ☆古沢清
 ☆三浦広

                                以上十五名の方々です。

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