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信行会講義(2)

ご遺文 仏教・宗門の歴史 日蓮上人と信徒・檀家
日蓮上人のご遺文 日本仏教の流れと諸宗派・その1 千日尼・国府尼
如説修行抄 日本仏教の流れと諸宗派・その2 領家の大尼・新尼
観心本尊抄(天晴れ…) 日本仏教の流れと諸宗派・その3 日妙尼(乙御前の母)
立正安国論 お盆 妙一尼
一生成仏鈔 日蓮聖人の生涯 −その1− 「龍口法難」と「四条金吾」
観心本尊抄(今本時の) 日蓮聖人の生涯 −その2− 「お会式」と「池上宗仲・宗長」
開目抄 日蓮聖人の生涯 −その3− 「富木常忍」と法華経寺・中山門流
日蓮聖人滅後の日蓮宗(その1)
日蓮聖人滅後の日蓮宗(その2)
日蓮聖人滅後の日蓮宗(その3)





平成12年3月12日(日) 実台寺信行会(第十二回)資料
日蓮聖人の御遺文

日蓮聖人の御遺文 〔祖訓・御書・御妙判とも言う〕

1. 御遺文とは?
日蓮聖人が一生のうちに書き残された著作・お手紙・図 録など
著作・書状 493編、 図表 65編、断簡 357点、
他、抜書・書写など 163点。
五大部「立正安国論」「開目抄」「観心本尊抄」「撰時抄」 「報恩抄」
2.御遺文の名称
@聖人ご自身で名づけたもの→開目抄、観心本尊抄など。
A編纂人が名づけたもの→「盂蘭盆御書」「四条金吾殿御返事」など。
 (弟子・旦那等への手紙などは、その内容・宛名人の名で)
※重要御書は、弟子でなく信者(檀那)に与えている。

 報恩抄 (建治2年 身延入山3年目 55歳)
   師の道善房の追善のために著わす。弟子の日向上人を房州へ遣わし、墓前で読 ませる。

 報恩ということ
 ○恩を知る者は、生死に在りと言えども善根を壊らず。恩を知らざる者は、善根断滅す。 
  (恩を知れば、あらゆる善根を積むことが出来る。) 
 ○恩を知り、恩に報ずるは、仏に過ぎたる者なし。(般若経)

 内容
  仏教における報恩とは、親・主人などを正しい信仰の道に導き入れること。
  そのためには、自分が修行することが肝心。
  道善房にご恩を受ける、→正しい信仰の道に導き入れることが出来なかったのは残念。
  もう一度、法華経の最勝であることをお知らせ申そうと思って著わす。
  法華経は、今すぐに弘まらなくても必ず後の世に弘まる。そうしたら、日蓮を導いてくれた道善房の功徳は大きい。
  この功徳は、永久に残るであろう。

(本文、抄出)
日蓮が慈悲昿大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながる(流布)べし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此功徳は伝教、天台にも超へ、龍樹、迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、時のしからしむる耳。春は花さき秋は菓なる、夏はあたゝかに冬はつめたし。時のしからしむるに有らずや。
〔言葉の意味〕
@慈悲
 ※大慈大悲
A衆生 ※「一切衆生悉有仏性」
B功徳                   ※仏は無量の功徳を具えている
 ※回向…みずから積んだ功徳を、他の人々に振り向けること
C無限地獄                 ※阿鼻叫喚
D伝教(大師)               ※大師
E天台(大師)               ※三国四師
F龍樹
G迦葉
H極楽
I穢土(←→浄土)
J正法・像法・末法
K弘通
Lしからしむるのみ

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平成12年4月12日(水) 実台寺信行会(第十三回)資料
如説修行鈔

〈日蓮聖人の御遺文〉講読
 如説修行鈔 (文永10年5月 佐渡一の谷 52歳 ご真筆なし)
 「如説修行」という句は、法華経中には沢山出てくる。
 「如説修行 功徳甚多」〔説の如くに修行せん、功徳甚だ多し。〕(陀羅尼品第二十六)
 如説=説の如く(仏さまのおっしゃる通り)
 ◎法華経の信仰がだんだん崩れてきて、お釈迦さまのご精神と違った信じ方をするものが増えてきている風潮の中で、仏様の教えのとお  りに修行することの大切さを説く。

  宛名:「人々御中へ」
  後書:「此書御身を離さず常に御覧有るべく候」 
    (おおぜいの弟子・檀那たちに、法華経を信じる根本の心得を説いて、皆で集まって読むようにという積りで遣わされたものと思われる。)

【本文抄出・口語訳】
 
天下万民諸乗一仏乗となりて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、
  この世の多くの人の信じる様々な教えが、法華経の教えに集約されて、法華経が独り栄えるときが来るに違いない。その時に万民が一様に南無妙法蓮華経と唱えることになれば、

吹く風枝をならさず、雨土壞をくだかず、代は羲農の世となりて、
  この国に何の災いも無くなって吹く風は枝を鳴らさず雨は土くれを砕かないようになる。そして、古代中国  の名君の伏羲・神農の治世の時のように穏やかな時代になる。

今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人・法共に不老不死の理を顕れん時を各各御覧ぜよ。
  そうなれば、この世においては不詳の災難を払って、人々の命も永く延びる。人間もみな栄え、仏の尊い教  えも永く栄えて人も法もともに不老不死ということが事実の上に現われる。

現世安穏の証文疑ひあるべからざる者なり
  こういう時が必ず訪れる。こうなったら「現世安穏」という法華経の証文は疑いないではないか。

諸乗−−−−−様々の教え。「乗」は、乗物(衆生を仏の世界へ導く教え)。
一仏乗−−−−「一乗」とも。一つの最高の教え。法華経のこと。
繁盛せん時−−−繁盛したら、その時には
吹く風枝をならさず、雨土壞をくだかず、−−−(何の災いもなくなる)
羲農の世−−「羲」は伏羲、「農」は神農。両者とも中国古代の名君。
今生−−−現世(この世)。前生・今生・後生。
長生の術−−−長生きの方法。
人、法共に−−−民衆も仏法もともに ○ 理−−−−道理、
現世安穏−−−この世で安楽であること。≪参考≫「三世」とは「前世・現世・来世」 
       「現世安穏 後生善処」(薬草諭品第五)。

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平成13年6月12日(火) 実台寺信行会(第二十四回)資料
「観心本尊抄」
〈日蓮聖人の御遺文〉講読
「観心本尊抄」(文永10年4月25日 佐渡一の谷 52歳 真蹟在中山法華経寺)
           佐渡一の谷 妙照寺、 国宝(中山法華経寺・聖教殿)
  正式には、「如来滅後五五百歳始観心本尊鈔」、略して、「本尊抄」
久遠の教主釈尊が、入滅後5回目(末法の始め)の五百歳を生きる凡夫のために説き遺された「観心」と「本尊」とを表わす。
如来…釈迦如来
滅後五五百歳…入滅後、5回目の五百年(入滅後、2001年〜2500年)
観心…(自分の心を見つめること。)
「南無妙法蓮華経」の題目を口に唱え心に念じ身体で実行すること。
本尊…久遠の教主釈尊。
著述の3ヶ月後(7月8日)、信心の対象として「大曼荼羅御本尊」を図顕

    宛名:「富木常忍」
   後書:「大田殿、教信御坊等に奉る」(「富木殿御返事」) 
(富木殿に遣わされたものであるが、大田乗明・曽谷教信と三人に読ませ、他にも広めるようにとの意図。)

【本文抄出・口語訳】

   天晴れぬれば地明かなり。法華を識る者は世法を得べき歟。
天空が晴れると、大地は照らされて明るくなる。それと同じように、法華経の教えに本当に通じている人は、自然にこの社会における正しい生き方を身に付けることが出来る。
  一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裏みて、
 一念(一瞬の心)に三千の世界を備えているという教えを知らない衆生に対しては、釈尊は大慈悲の心を起こして、妙法蓮華経の五字の中にこの一念三千の教えの珠を包み篭め
   末代幼稚の頸に懸けさしめ玉ふ。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと、
未熟な末世の衆生のために、その首に掛けて下さっている。上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩が、この妙法五字を信ずる人を守護くださることは、
   大公、周公の成王を摂扶し、四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり。
昔中国の賢人太公望と周公旦とが幼年の周の成王を助け、隠棲していた四人の老人が漢の恵帝に仕えたことと同じことなのである。
世法−−−この社会における正しい生き方
一念三千−−−私たち凡夫の一念(一瞬の思い)にも三千世間(全宇宙の現象)が備 わっているという意味。
摩訶止観の第五に云く「夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す。此三千一念の心に在り若心無くんば已みなん。」
◎一心に十法界を具す
    *十界  地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界−−−六凡
            声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界−−−−−−−−−−−−四聖
◎一法界に又十法界を具す(「十界互具」)→→→百法界
◎一界に三十種の世間を具す(「三十世間」)
                  「十如」--- 相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等
                   「三世間」--- 五陰世間・衆生世間・国土世間

五字−−−妙法蓮華経
四大菩薩−−上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩
大公−−−太公望。 中国古代,西周建国の際の功臣。彼は,貧窮の中に年老いて,渭水で
                    釣をするところを周の文王に見いだされ,周の先公の太公が望んでいた人物だと
                    いうことで太公望と呼ばれたという。軍師として 武王の殷王朝討伐に力を尽くし,
                    斉に封ぜられてその始祖となった。
周公−−−周公旦。 中国,西周王朝建国の功臣。周の文王の子。武王の弟。武王を助けて
                    殷王朝を滅ぼし,武王 の死後は幼い成王を助け摂政となった。
成王−−−周の武帝の後の王で、幼かった。 文王の子。
四皓−−−「皓」は、真白い意味。四人の白髪の老人。
                   中国,秦末に商山(陝西省商県)に乱を避けて隠居した4人の老人。東園公,夏黄公,
                   就里(ろくり)先生,綺 里季の4人
恵帝−−−漢の高祖の後に立った帝。

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平成13年7月12日(木) 実台寺信行会(第二十五回)資料
「立正安国論」
〈日蓮聖人の御遺文〉講読
「立正安国論」(文応元年[1260]7月。39歳。 於鎌倉著。与北条時頼書。
         真蹟在中山法華経寺。)

 ○三大部…立正安国論・開目抄・観心本尊抄

7月16日、宿屋光則を通じて幕府最高権力者、前執権・北条時宗に提出。
      「国家諫暁(いさめる)」の書。
 ○立正安国…正法を立てて国家を安んずること。 仏法が正しく行われること
         によって、この地上に仏国土が顕現されることを目指す。
  旅客と主人との問答形式(旅客は北条時頼、主人は日蓮聖人、を想定)

  旅客来りて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで天変地夭飢饉疫癘遍く天下に満ち広く地上に迸り、
  牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり。死を招くの輩、既に大半に超へ、悲まざるの族敢て一人も無し。… (冒頭の文)


  全編十番の問答(本文抄出部分は、最後の部分。)
  立正安国論の提出が、後の種種のご法難の原因となる。

   【本文抄出・口語訳】
  汝早く信仰の寸心を改めて、速に実乗の一善に帰せよ。
   あなたは一刻も早く誤った信仰の心を改めて、直ちに唯一の真実の教えである法華経に帰依しなさい。
  • 寸心−−−いささかの心
  • 実乗−−−仏の真実の教え
  • 一善−−−唯一の善。
  • 帰(帰依)−−−己のすべてを投げ出して信奉する。
  然らば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。
   そうすれば、この世の中はすべて仏の国土となります。 仏の国土はどうして衰えることがありましょうか。
  • 三界−−−一切衆生の生死輪廻する3種の世界、すなわち欲界・色界・無色界。
  •          衆生が活動する全世界を指す。
  • 仏国−−− 仏の国、すなわち浄土。菩薩の誓願と修行によって建てられる。
  •         仏教が行われている国。仏国土。
  十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。
   十方の世界はすべて浄土となります。浄土がどうして破壊されることがありましょうか
  • 十方−−−四方(東・西・南・北)と四隅(北東・北西・南東・南西)と上下。
  •      すなわち、あらゆる場所・方角。
  • 宝土−−−(浄土)五濁・悪道のない仏・菩薩の住する国。
  国に衰微なく土に破壊無くんば、身は是れ安全に、心は是れ禅定ならん。
   この国土が衰えることなく、破壊されることもなければ、おのずとこの身体は安全であり、心は安らかでありましょう。
  • 禅定−−−心を静めて一つの対象に集中する宗教的な瞑想。また、その心の状態。
  此の詞、此の言信ずべく、崇むべし。
   この言葉は、(経文に基づいて言っているのですから)信じ、崇めなければならなりません。
   (それが一人一人の安心と社会の平和とをもたらす最善の道であります。)

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平成13年12月12日(水) 実台寺信行会(第二十九回)資料
「一生成仏鈔」
〈日蓮聖人の御遺文〉講読

「一生成仏鈔」
  • 建長七年(1255)。三十四歳著。真蹟は伝わらない。
  • 宛名はないが、富木常忍氏に対して唱題成仏の教示を与えた消息といわれる。
  • 「一生成仏」とは、即身成仏・現身成仏と同じ。
  • 妙法五字の唱題による現世の成仏。←→弥陀念仏による来世の成仏(往生成仏)。

      【本文抄出・口語訳】

衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二の隔なし。只我等が心の善悪によると見えたり
私たち衆生の心がけがれると、住んでいるこの世界もけがれ、心が清らかであれば住んでいるこの世界も清らかであるという訳で、浄土とか穢土とか言っても、私たちの住む世界に二種類の異なった世界があるわけではない。それはまったく私たちの心が善の状態にあるか悪の状態にあるかによって決まるのである。
◎衆生… いのちあるもの。一切の人類や動物。 <参考>「一切衆生悉有仏性」
◎土… くに。世界。 <参考>「国土・領土・仏土・冥土」
◎浄土… 五濁・悪道のない仏・菩薩の住する国。
◎穢土…けがれた国土。三界六道の苦しみのある世界。凡夫の住む娑婆。この世。
<参考>「立正安国」、<参考>「現世安穏 後生善処」(薬草喩品)
衆生と云ふも仏と云ふも亦此の如し。迷ふ時は衆生と名け、悟る時をば仏と名けたり。
衆生と言ったり仏と言ったりするのも、またこれと同じ道理である。私たちの心が迷っている状態にある時は衆生と名付け、悟った状態にある時を仏と名付けたのである。
◎迷い…ものごとの真実が分からずに、誤った考えに執着すること。
 偽りの姿にとらわれて、それこそが真実であると思い込むことを、絶え  ず繰り返している状態。
◎悟り(覚り)…迷いが解けて真理を会得すること。
  *涅槃(寂静と意訳する。煩悩を制御してとらわれのない心の静けさ。)

譬へば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。
たとえると、曇っている鏡でも磨けば玉に見えるようなものである。現に今の一念無明の迷っている心は磨かない鏡の状態である。これを磨くならば必ず法性真如の明鏡となるのである。
◎一念…きわめて短い時間。一瞬。一たび心を起すこと。わずかに心を起すこと。
◎無明…人生や事物の真相に明らかでないこと。すなわち、すべてのものは無常であり固定的なものは何もない<無我>という事実に無知なこと。
  一切の迷妄・煩悩の根源で、「愚癡」とも。
 ※「無明長夜」・「無明の闇」・「無明の眠り」・「無明の酔」
   上記の4句は、無明の境地に沈んで長く出離しえない様子を比喩的に表現。
◎法性…事物の本質、事物が有している不変の本性を意味する。
      真如・実相・法界などと同義に用いられる。
◎真如…原義は<あるがままなこと>。事物を支える真理。 法性と同義。
   「法性真如」は、同義語を2つ重ねたもの。
深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき。只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり
(だから)深く信心を起こして、昼夜・朝晩にと常にゆるがせにすることなく磨き(研鑚し)なさい。どのようにして磨くか、と言うと、ただひたすら「南無妙法蓮華経」とお唱えすること、こうすることを磨くというのである。
◎信心(しんじん)…仏の教えを信じて疑わない心。
<参考>「人の身の五尺六尺の神(たましい)も一尺の面(かほ)に顕われ、一尺のかほのたましひも一寸の眼の内におさまり候。… 其の如く南無妙法蓮華経の題目の内には、一部八巻二十八品六万九千三百八十四の文字、一字ももれずかけずおさめて候。 …法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候。朝夕御唱へ候ば、正しく法華経一部を真読あそばすにて候。」(「六難九易鈔」)


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平成14年8月12日(月) 実台寺信行会(第三十五回)資料
「観心本尊抄」(今本時の…)
〈日蓮聖人の御遺文〉講読
 「観心本尊抄」については、H13年6月の第23講を参照。

【本文抄出・口語訳】

今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。
今本時の娑婆世界は、火水風の三災による破壊もなく、成住壊空の四劫の変遷もない常住不変の浄土です。
○今本時の娑婆世界…寿量品に開顕された久遠本仏が常住している常寂光土のこと。
 ・今…法華経が説かれて、それから後のこと。
 ・本時…寿量品の説かれる時。「凡ての者の本来の性質の示される時」ということ。
 ・娑婆世界(=娑婆)…忍土・忍界。 苦しみが多く、忍耐すべき世界の意。
○三災…三つのわざわい。@水災・火災・兵災。A小三災。減劫の終りに起る刀兵災・疾疫災・飢饉災。B大三災。
      壊劫エコウの終りに起る火災・水災・風災。
○四劫…世界の成立から破滅に至る四大期。世界が成立する期間を成劫、成立した世界が持続する期間を住劫、
      世界の壊滅するに至る期間を壊劫、次の世界が成立するまでの何もない期間を空劫という。
○常住…生滅・変化なく永遠に存在すること。特に迷いの世界の無常に対し、悟りの世界の永遠性を意味する。
○浄土…五濁・悪道のない仏・菩薩の住する国。十方に諸仏の浄土があるとされるが、特に、西方浄土往生の思想が 
      盛んになると、阿弥陀の西方極楽浄土を指すようになった。⇔穢土エド。

仏既に過去にも滅せず未来にも生せず、所化以て同体なり。
其処に居住する能化の仏は、過去に於いても入滅されないし、未来においても生まれることのない三世常住のみ仏で、所化の弟子・信徒・一切衆生、みな悉くこれと同一の体相(すがた)であります。
○所化…(教化されるものの意) 仏・菩薩に教化される一切衆生をいう。僧侶の弟子。寺で修行中の僧。
      ⇔ 能化(一切衆生を教化する者、すなわち仏・菩薩。)
此れ即ち己心の三千具足、三種の世間なり。
 これが即ち私ども凡夫の心に「三千世界」を具えているということであり、「三種の世間」を具えているということであります。
○己心…自己の心。
○三千大千世界…〔仏〕須弥山を中心に、日・月・四天下・四王天・三十三天・夜摩天・兜率天・楽変化天・他化自在天・梵世天などを含んだものを一世界とし、これを千個合せたものを小千世界、それを千個合せたものを中千世界とし、それを千個合せたものを大千世界とする。大千世界のことを三千大千世界ともいう。われわれが住む世界の全体。三千世界。
○三種世間…三世間とも。移ろい行く現象世界(世間)を三種に分類したもの。衆生世間・五蘊世間・国土世間のこと。
・衆生世間(衆生が一緒に集まって生活している社会。普通にいう「社会・国家」のこと。)
・五蘊世間(我々個人の心と心が互いに影響を与えあっている関係の世間。狭い意味での「生活環境」のこと。)
・国土世間(多くの社会や国家が、関係しあっている世間。普通にいう「世界」のこと。)

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平成14年9月12日(木) 実台寺信行会(第三十六回)資料
「開目抄」
〈日蓮聖人の御遺文〉講読

「開目抄」
(文永9年2月 佐渡塚原三昧堂 51歳 真蹟於身延焼失)
文永8年(1271)11月、佐渡に到着と同時に執筆、翌年2月に完成。
○執筆の理由
  @日蓮聖人の布教と迫害に対する弟子・信者の疑いを払うため。
  A末法の導師が日蓮聖人であることを明らかにするため。
  B佐渡で死を覚悟した日蓮聖人が「かたみ」として弟子達に残すため。
○題名の意味
  「目を開く」こと。即ち、「世間の人の迷いを除いて、世間の人に法華経に対して、また、法華経の行者に対しての正しい理解を与える。」という意味。
 【本文抄出・口語訳】

儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶けざれば、外家の聖賢は有名無実なり。

儒教の教えでも孝ということは重んじるが、それは現世だけに限られる。来世において親を救うことを説いていないので、仏教以外で聖人とか・賢人とかいっても、実際は名のみで本当の聖人・賢人とは言われない。
○儒家…儒者の家。 また、儒者。
○孝養…親に孝行をつくすこと。「きょうよう」とも。
○外家…仏道以外の教えを信じる者。ここでは、儒家のこと。

外道は過未をしれども父母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ。

また、バラモン教などでは過去世・未来世のことは説いているけれども、(一切の人間が仏になることを説かないので)親の後生を助ける道がない。仏教こそ来世のことも、一切衆生の成仏のことも説いて、親の後生を助け成仏を叶えるので、仏教を学ぶ者こそ聖人・賢人という名で呼ばれるべきなのである。
○外道…仏教以外の教え。また、その教えを奉ずる者。ここでは、インドの宗教(バラモンなど)。

しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は、自身の得道猶かなひがたし。何に況や父母をや。

けれども、(同じ仏教でも)法華経以前の大乗・小乗の経典を拠り所にする宗派では、自分自身が成仏することが難しい。ましてや、親を助けて親の成仏を実現することができるはずがない。
○法華経已前の大小乗の経宗…。
○得道…仏道を修めてさとりをひらくこと。悟道を得ること。

但文のみありて義なし。今法華経の時こそ女人成仏の時、悲母の成仏も顕はれ、達多の悪人成仏の時、慈父の成仏も顕はるれ。此の経は内典の孝経なり。

ただ経文に後生の成仏が説かれるだけで、その実が伴っていない。今この法華経が説かれる時にこそ、女人成仏ということも示され、母の成仏ということも明らかになる。また、ダイバダッタのような悪人さえ成仏することが示され、父の成仏ということも明らかになる。
○女人成仏…古来より地位が低くみられてきた女性も仏になれると説いた教えで、法華経の教説の特色の一。女性には仏になれない五種のさしさわり(五障)があるとされるが、法華経提婆達多品では女性の成仏の現証として八歳の竜女の即身成仏が説かれる。日蓮も女人成仏を法華経の諸経に勝れている点として強調しており、女性信徒が多かったことも日蓮が女人成仏を強く主張した点をよく示している。(「日蓮宗小事典」より)
○悪人成仏…どのような重い罪を犯した者でも成仏をとげることができるということ。法華経の提婆達多品で、極悪の提婆達多に未来に仏となるへき保証(記別)が与えられたことによる。ここに法華経の救済の世界がすべての人々におよぶことがよく示されている。(同上)

【提婆達多】釈尊の従弟にあたり、八万法蔵を暗誦するほどの頭脳明晰な人物でありながら、世俗的名利への強い執着心によって釈尊に敵対し、「五逆罪」のなかの「殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧」を犯して無間地獄に堕ちたと伝える。日蓮は、この提婆達多が法華経において成仏の保証を受けたことに着目し、謗法者であっても救われると提唱した。(「日蓮宗小事典」より)
【竜女成仏】法華経提婆達多品に説かれる八歳の竜女の成仏をいう。古来、女人は梵天・帝釈・魔王・転輪王・仏身となることができない(五障)とされてきたが、法華経では−転して、竜女が菩提心(悟りを求める心)を起こしてすみやかに成仏したことを明かす。日蓮は、この竜女成仏を女性の成仏の手本を示したものとして重視した。 (「日蓮宗小事典」より)

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平成11年3月12日(金) 実台寺信行会(第三回)資料
日本仏教の流れと諸宗派・その1
〇仏教伝来…538年または552年
    聖徳太子→難波に四天王寺を建てる(仏法最初の寺)――推古元年(593)

〇南都六宗−−法相・三論・華厳・成実・倶舎・律の六宗

    興福寺・薬師寺・清水寺(法相宗)、東大寺(華厳宗)、唐招提寺(律宗)、
    法隆寺(法相宗→聖徳宗)
    経典を学ぶ〈学衆〉、檀家も葬式もない、

〇平安仏教 顕教−−その教理が言葉ではっきり説き示された教え。根本仏は釈迦。
          密教−−その境地に到達したもの以外にはうかがいしることの出来ない、体験本
              位の教説。 根本仏は大日如来。
 @天台宗−−天台大師智覬。天台法華宗とも。妙法蓮華教を所依の経典としている。
          宗祖、伝教大師・最澄。 延暦寺・寛永寺・中尊寺・善光寺大勧進・立石寺
 A真言宗−−弘法大師空海。密教。大日如来が根本仏。本尊は色んな仏。法身仏・応身仏
         古義真言宗(高野山・東寺など)、新義真言宗(豊山派・智山派など)
         神護寺・東寺・高野山金剛峰寺・護国寺(豊山派)・新勝寺(智山派)
〇鎌倉仏教−−天台宗がルーツ
   創始仏教(日本人の手で創り出された仏教)
   専修仏教(難行道→易行道)
   民衆仏教へ
☆浄土教の流れ 末法時代の到来(1052年) 厭離穢土・欣求浄土−−阿弥陀仏信仰

  B浄土宗−−開祖・法然 称名念仏(易行道) 知恩院(京都)・増上寺(東京)
  C浄土真宗−−開祖・親鸞 他力の念仏 在家仏教 阿弥陀一仏(一神教)
            迷信・占い・たたりを否定  浄土真宗本願寺派(東)、真宗大谷派(西)
  D時宗−−開祖・一遍  全国遊行の旅 念仏踊り 遊行寺(清浄光寺・藤沢)

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平成11年4月12日(月) 実台寺信行会(第四回)資料
日本仏教の流れと諸宗派・その2
〇鎌倉仏教−−天台宗がルーツ  (浄土・禅・法華)

@創始仏教(日本人の手で創り出された仏教)←→渡来仏教
A専修仏教(難行道→易行道)←→兼学仏教
B民衆仏教
〇浄土教  末法時代の到来(1052年) 厭離穢土・欣求浄土−−阿弥陀仏信仰

浄土門(他力教・易行道)←→聖道門(自力教・難行道)
 B浄土宗−−開祖・法然 、称名念仏(易行道)、吉水教団(京都東山)
          「選択本願念仏集」、智恩院(京都)
 C浄土真宗−−開祖・親鸞  他力の念仏  在家仏教  阿弥陀一仏(一神教)
          迷信・占い・たたりを否定
          浄土真宗本願寺派、真宗大谷派
 D時宗−−開祖・一遍  全国遊行の旅 念仏踊り 遊行寺(清浄光寺・藤沢)
〇禅宗−−開祖・達磨大師  
 E臨済宗−−派祖・臨済義玄→栄西 「興禅護国論」 茶の木を移植 
          京都・鎌倉にそれぞれ五山・十刹 南禅寺・天竜寺・建長寺・円覚寺
          「臨済将軍」「曹洞土民」

 *黄檗宗−−江戸時代 隠元 臨済禅の一派 黄檗山万福寺(京都・宇治) 明朝風
          崇福寺(長崎)   隠元豆・普茶料理

 F曹洞宗−−道元(高祖) 瑩山(太祖) 一仏両祖 「正法眼蔵」
只管打坐(しかんたざ) 越前・永平寺(修行道場) 鶴見・総持寺(布教) 
曹洞宗には分派がない(全国15000ヶ寺) ※(臨済宗6000ヶ寺で14派)
「人物の臨済、組織の曹洞」(臨済)沢庵・夢窓・一休・隠元など(曹洞)良寛
<参考>「和尚」の読み方  おしょう(禅)、かしょう(天台)、わしょう(真言)、和上(わじょう・真宗)

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平成11年5月12日(水) 実台寺信行会(第五回)資料
日本仏教の流れと諸宗派・その3
F曹洞宗−−道元(高祖) 瑩山(太祖) 一仏両祖   「正法眼蔵」が根本聖典
只管打坐(しかんたざ) 越前・永平寺(修行道場) 鶴見・総持寺(布教) 
曹洞宗には分派がない(全国15000ヶ寺) ※(臨済宗6000ヶ寺で14派)
※比較 臨済−−公案禅、曹洞−−黙照禅」
「臨済痛快、曹洞細密」(中国での評)、「臨済将軍、曹洞土民」
「人物の臨済、組織の曹洞」」(臨済)沢庵・夢窓・一休・隠元など(曹洞)良寛
〇法華
 G日蓮宗−−開祖・日蓮  釈尊の最高至上の教え・法華経  「立正安国論」

         日 蓮→現世の救いを説く。法華経により娑婆も常寂光土になる。
       ※浄土教→現世を穢土とし、阿弥陀による来世の救済を説く。(現実逃避)

         「久遠実成」の思想−−人間釈尊を悟らしめた大いなるいのち(=法)。
        この法は、釈尊が生まれても生まれなくても存在する。釈尊滅後も亡 くならない。
        つまり、永遠の命といえる。(=久遠)
        いつでも、どこにでも内在している。(=実成。事実として成立)
         「ニュートンと引力」の関係

※教判(教相判釈)−−経典の体系づけ、価値づけ。

 ○「五時八教」説(天台大師・智覬)−−−すべての大乗経典は釈尊一代の説法による と考え、
                           時間的序列を五期に分ける。

     五時−−−@華厳時 A阿含時 B方等時 C般若時 D法華涅槃時。
     (五味)−− (乳味)    (酪味)  (生蘇味)  (熟蘇味)  (醍醐味)
     釈尊最後の説法は、法華。従って、法華時は釈尊の思想の最円熟期。
     この経が、釈尊の真意を伝えるものであり、それ以外の諸経はこの経を説くための
     序説に過ぎないとランクづけする。(中国天台宗)
〇明治時代  神仏判然令→廃仏毀釈

  ※神仏混交
     本地垂迹説…(神の本地は仏であり、人々を救うために仏が神になって垂迹した。)
     権現…(日本の神は、仏が仮の姿をとって現れたとする)

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平成11年7月12日(月)
「お盆」について

○正式には、「盂蘭盆」(梵語・ウランバナの音訳)。 意味は、「逆さに吊るされている(苦しみ)」の意。

○盂蘭盆会−−死者が死後に逆さに吊るされるような非常な苦しみ(餓鬼道の苦しみ)を受けているのを救うために三宝に供養すること。
後に、先祖の霊を供養する法会。

○先祖とは−−民間信仰による考え方。→死んだ人はある一定の年月を経ると(死の穢れから浄まって)先祖となると考えた。その期間が、一般に33年とされる。故に、三十三回忌を「トムライアゲ」と称する。  (儒教的考え方と融合して、日本仏教が成立。)


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平成11年9月12日(日) 実台寺信行会(第九回)資料
日蓮聖人の生涯 ―その1―
T.生誕〜立教開宗     (U.立正安国論・四大法難  V.身延入山〜入寂)

略年表
1222年(貞応1) 2月16日、安房国東条郷小湊片海に誕生。(善日麿)

1233年(天福1) 清澄寺(天台宗)へ登り、道善房に師事。(12歳)

1237年(嘉禎3) 出家得度、是聖房蓮長と名のる。(16歳)

1239年(延応1) この頃以降、鎌倉・京畿(主に比叡山)に遊学。(18)

1253年(建長5) 清澄寺にて立教開宗宣言。日蓮を名のる。(32歳)

@貞応元年(承久4)という年
承久の乱(1221・承久3年) 後鳥羽上皇が挙兵→敗れる。

A2月16日という日
「御伝土代」(孫弟子・日道)に記載。
二つの奇瑞。
釈尊入滅(2月15日)。


B海人の子[家柄について]
「日蓮今生には貧窮下賎の者と生まれ、旃陀羅が家より出でたり。」(「佐渡御書」)
「日蓮は東海道15ヶ国の内、第十二に相当たる安房の国長狭郡東条の郷片海の海人が  子也。」(「本尊問答抄」)
C出家の動機
「大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給え。十二のとしより此願を  立つ。」(「破良観等御書」)
「世間を見るに、…家に二の主あれば其家必ず破る。一切経も又かくのごとくや有るら  ん。…而るに十宗七宗まで各々諍論して随はず。…いかがせんと疑ふところに、一の  願を立つ。我八宗十宗に随はじ。」(「報恩抄」)
D比叡山遊学
「然而随分諸国を修行して学問し候しほどに」(「本尊問答抄」)
「二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々あらあら習い回り 候し程に」(「妙法比丘尼御返事」)
横川・定光院
E立教開宗
「此を申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩を報ぜんが  ために、建長五年四月二十八日、安房の国東条の郷清澄寺道善之房持仏堂の南面にし  て、…少々の大衆にこれを申しはじめて」(「清澄寺大衆中」)
「日本国に此を知れる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母・兄弟・  師匠に国王の王難必来るべし」(「報恩抄」)
F日蓮という名
「明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華とな  り。故に妙法蓮華経と名く。日蓮又日月と蓮華との如くなり。」(「四条金吾女房御書」)
「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す。」  (「神力品第二十一」)
「不染世間法 如蓮華在水」(世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し。)
   (「従地湧出品大十五」)


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平成11年12月12日(日) 実台寺信行会(第十回)資料
日蓮聖人の生涯 ―その2―

U.立正安国論・四大法難          (V.佐渡流罪・身延入山〜入寂)

略年表
1260年(文応1)   7月16日、幕府に「立正安国論」を献上。(39歳)
    同  年     8月27日、松葉が谷法難
1261年(弘長1)   5月12日、伊豆法難(40歳)   1263年、赦免。
1264年(文永1)   11月11日、小松原法難(43歳)
1268年(文永5)   再び、幕府に「立正安国論」を献上。(47歳)
1271年(文永8)   9月12日、竜の口法難(50歳)
     同  年      10月10日、佐渡へ旅立つ。 〜28日、佐渡に到着。

@立正安国論
「旅客来りて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘、あまねく天下に満ち広く地上にはびこり、牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり。死を招くの輩、既に大半に超へ、悲まざるの族あえて一人も無し。」(冒頭部)
「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然らば即ち三界は皆仏国なり。仏国其れ衰えんや。」
A松葉が谷法難ーー私難
「夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとしかども、いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬかれる。然れども、心を合わせたる事なれば、寄せたる者も科なくて、大事の政道を破る。」(下山ご消息)

この年七月、「立正安国論」を北条時頼に献上、幕府を諫曉(いさめさとすこと)。
しかし、時頼は黙殺。多数の念仏者が暴徒となって草庵を焼き討ち。
 
B伊豆法難ーー王難
このような迫害にもひるまず、鎌倉の辻で伝道を再開。念仏信者の執権北条長時とその父重時は、聖人を逮捕。伊豆国伊東へ流罪にする。(執権親子の信仰に逆らったことが理由。)
俎岩(まないたいわ)に置き去りにし、海に沈めようとの企て→→漁師・船守弥三郎に助けられる。
地頭・伊東八郎左衛門の難病を平癒させる。→→伊豆海中出現の「立像の釈迦仏」を贈られる。
B小松原法難(=東条法難)ーー私難
故郷安房に帰り、悲母を見舞う。天津の工藤吉隆の招きに応じる途上松原大路において、地頭東條景信の待ち伏せに逢い、眉間に三寸の傷、左の手を折られる。奇跡的に虎口を脱する。弟子の鏡忍坊、工藤吉隆は殉教した。
「唯日蓮一人こそ(法華経を身に)よみはべれ。我不愛身命但惜無上道也。されば日蓮は日本第一の法華経の行者也。」(南条兵衛七郎殿御書)
C竜の口法難ーー王難
1268年、蒙古の国書到来、世上騒然の中、日蓮聖人は再度「立正安国論」を北條時宗に上呈、諸宗への批判も激しさを増し、弟子・信徒の数も急速に増えていった。1271年夏、ひどい旱魃の折、生き仏のように崇められていた極楽寺の良観に祈雨の挑戦を申し入れ、これを打ち負かした(頼基陳状)。
これを契機に、鎌倉諸寺などの幕府への訴えが相継ぎ、幕府は邪宗であるとして弾圧の方針を打ち出した。1271年9月12日午後4時過ぎ、平頼綱は数百人の兵士を引き連れ、松葉が谷の草庵を急襲、聖人を逮捕。法華経五の巻で打ち責めさいなむ。
「打つ杖も五の巻、打たるべしと言う経文も五の巻、不思議なる未来記の経文なり。」
(上野殿御返事)
「諸の無知の人、悪口罵詈し、及び刀杖を加うる者有らん、我等みなまさに忍ぶべし。」 (法華経巻五・勧持品)
すでに幕府では聖人を佐渡流罪と決定していたが、それを告げられた聖人は「外には遠流と聞こえしかども、内には頚を切ると定めぬ。」と覚悟していた。確かに、表向きは流罪、内実は途中で斬首する予定が立てられていた。
翌13日午前1時頃鎌倉出発、はたせるかな幕府の刑場片瀬竜の口に至ると馬より下ろされ、首の座に据えられる。突如、不思議な天変が起こり、危うく虎口を脱する。


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平成12年2月12日(土) 実台寺信行会(第十一回)資料
日蓮聖人の生涯 ―その3―

V.佐渡流罪・身延入山〜入寂

略年表
1271年(文永8)  10月28日、佐渡に到着。(50歳)
1272年(文永9)  1月16日、 塚原問答
             2月 「開目抄」を著わす。
1273年(文永10)   4月25日、 「観心本尊抄」を著わす。
             7月8日、 大曼荼羅を始顕する。
1274年(文永11)  3月26日、 佐渡配流を赦され鎌倉へ帰る。
             4月8日、 平頼綱と会見、3度目の諌暁。
             5月17日、 身延山入山。
1275年(建治1)  「撰時抄」を著わす。
1276年(建治2)  「報恩抄」を著わす。
1282年(弘安5)  9月8日 療養のため身延を下山、常陸に向かう。
            9月18日 武蔵国池上宗仲の館に到着。
            10月13日 辰の刻に入滅。

@塚原三昧堂
「そらは板間あわず、四壁は破れたり。雨は外のごとし、雪は内に降る。仏はおはせず。 筵畳は一枚もなし。」(「妙法比丘尼御返事」)

A阿仏房夫妻
「阿仏房に櫃をしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。」
「只、悲母の佐渡の国に生まれかわりて有るか。」(「千日尼御前御返事」)
B開目抄(「人開顕」の書)
  「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん。」

C観心本尊抄 (「法開顕」の書、正式には「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」)
「其の本尊の体たらく、本師の娑婆の上に、宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右 に、釈迦牟尼仏、多宝仏。釈尊の脇士たる上行等の四菩薩。文殊、弥勒等は四菩薩の眷 属として末座に居し、迹化他方の大小の諸菩薩は、万民の大地に処して雲閣月卿を見る が如し。十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり。」

本尊=久遠実成の本師釈迦牟尼仏
題目=南無妙法蓮華経
大曼荼羅を図顕
正法
像法
末法 
D撰時抄
「衆流あつまりて大海となる、微塵つもりて須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始め しは、日本国には一タイ一微塵のごとし。法華経を二人、三人、十人、百千万億人唱へ 伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。
E報恩抄
「日蓮が慈悲昿大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。…」
  ※三大部(             )五大部(                )
F遷化
 いづくにて死に候とも、墓をばみのぶ沢にせさせ候べく候。」

〇「立正安国論」の講義
〇「六老僧」の選定
〇13日辰の刻 
〇臨滅度時の鐘
〇お会式桜 
〇六十一歳

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平成13年8月12日(日) 実台寺信行会(第二十六回)資料
日蓮聖人滅後の日蓮宗(その1)
 日蓮聖人滅後の日蓮宗(その1)

◎入滅・本弟子の制定
池上宗仲邸にて死期の近いことを悟り「立正安国論」を講じる。
六人の本弟子(「六老僧」)を定め、後事を託す。
「日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持」の六人
   *中老僧(六老僧以外の日蓮聖人の本弟子、12人とも18人ともいわれる)
     「六中九老僧」とは、六老僧・中老僧・九老僧を合わせた表現。
経一丸(後の日像)に京都弘通・宗義天奏を遺嘱。
   弘安5年(1282)10月13日 午前8時 61歳にて入滅
大坊・本行寺…終焉の地
お寄り掛かりの柱…終焉の間
御硯水の井戸…最後の手紙を書く
お会式桜
  10月14日 日昭・日朗の手で入棺、葬儀。
  10月26日 遺骨を身延山に納める。
          久遠寺、日蓮聖人棲神の霊地となる。

  弘安6年(1283)2月、百ヶ日忌の際に「身延山守塔輪番制」を定める。
                日向・日頂の両師は欠席。
  弘安7年(1284)10月、三回忌法要 日興以外の諸師は出席できず。

  身延山の守塔輪番は実行困難となり、日興が身延に常住、住職に( 弘安8年頃)。
  ほどなく、日向が身延にきて学頭職に就き門下・檀越を教育。
  日興は妥協を許さない剛直な性格、日向は温和で寛容な性格であった。
  身延山の大檀越波木井実長は、日興と意見が合わず次第に日向に親しみ、日向を師とすることを告げたため、
  日興は身延を離山、正応元年(1288)弟子と共に富士に移る。→富士派


◎門流(組織された信仰者集団)の形成

  六老僧
@日昭  浜門流(日昭門流)
  日蓮聖人の最初の弟子。下総平賀(現、松戸市)の生まれ。
  鎌倉浜土の法華寺(のちの妙法華寺)を拠点。103歳にて入寂。
A日朗  比企谷門流(日朗門流)
  16歳で叔父の日昭上人の導きで日蓮聖人に師事。「給仕第一」と称せられるほど聖人に随侍した。
  鎌倉比企谷の妙本寺、池上の本門寺、下総平賀の本土寺を拠点に布教、多くの人材を育成する。
  「朗門の九鳳」(「九老僧」)。
   *両山(長興山妙本寺、長栄山本門寺)
   *三長三本(長興山妙本寺、長栄山本門寺、長谷山本土寺)
B日興  富士門流(日興門流)
  駿河・岩本実相寺で出家、日蓮聖人と出会って改宗。生地の甲斐・駿河方面 で布教、
  大いに成果を上げる。→ 熱原法難
  聖人滅後久遠寺住職として身延の墓所を守ったが、大檀越波木井氏と意見が合わず身延を離山。
  富士の大石寺、重須の本門寺が拠点。→日蓮宗興門派→日蓮正宗(明治45年)
C日向  身延門流(藻原門流・日向門流)
  藻原(現・茂原市)生まれ。13歳で弟子に。行学に励み「論議第一」といわれる。
   藻原の法華堂(現・藻原寺)を根拠に上総一体に布教。
   日興が身延を離山した後、第2世住職に。
  D日頂  中山門流
   日蓮聖人最大の外護者・富木常忍の養子(母が常忍と再婚)。
   真間の弘法寺を拠点に下総一帯を布教。 富木常忍・大田常明・曽谷教信などを指導。
   のち、富木常忍との関係悪化、下総を去り重須へ。
    *両寺
E日持  静岡貞松の蓮永寺開山。わが国海外伝道の始祖。
   日蓮聖人の7回忌に祖師像造立の願主となる(池上本門寺の祖師像・現在重文指定)。
   青森・蝦夷(北海道)に足跡を残し、中国東北部、モンゴルへも?

(参考)檀越

  《五大檀越》
@富木常忍…下総若宮の領主。最大の外護者。主要遺文の対告衆であった。遺文の蒐集に努めた。
A四条金吾…聖人に最も愛された信徒。典型的な鎌倉武士、直情径行、聖人に尽くした。
B南条時光…駿河上野郷の領主。「上野殿}と呼ばれる。駿河を代表する外護者。
C池上宗仲…武蔵国池上郷の地頭。弟の宗長と共に帰依。臨終の時の邸宅。
D波木井実長…甲斐源氏南部氏の出。甲斐波木井郷の領主(の三男)。身延全山を寄進。
  その他、
船守弥三郎夫妻(伊豆)
阿仏坊・千日尼夫妻(佐渡)、
工藤吉隆(安房)、
大田乗明(下総)、
曽谷教信(下総)、
日妙聖人親子(鎌倉)、
比企大学三郎(鎌倉)、
領家の新尼(安房)

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平成13年10月12日(金) 実台寺信行会(第二十八回)資料
日蓮聖人滅後の日蓮宗(その3)
日蓮聖人滅後の日蓮宗(その3)

◎近世の日蓮宗
 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康→強固な政権確立・政治に組み入れられた宗教政策
→不受不施(折伏主義)から受不施(摂受主義)への転換
受・不受の論争
慶長4年(1599)、大阪城中にて、徳川家康の命により
  京都の妙覚寺日奥(不受不施派)と妙顕寺日紹(受不施派)が対論→日奥、対馬に遠島。
身池対論
受派…国主の供養は特例として受けてよし
身延久遠寺日顕、日遠
不受派…たとい国主の供養であっても未信者ならば拒否する
池上本門寺日樹、中山法華経寺日賢、小湊誕生寺
     結果は、受派(身延派)が幕府権力を背景に不受派を抑圧、池上本門寺・中山法華経    寺・小湊誕生寺などを支配、身延久遠寺を総本山とする体制を作る。
不受不施派は、寺請けを禁止され禁制となる。
檀林(学問所)の創設
関東…飯高檀林・中村檀林・松崎檀林・身延西谷檀林・水戸三昧堂檀林・池上南谷檀林
関西…松ヶ崎檀林・求法院檀林・鷹峰檀林・東山檀林・山科檀林・鶏冠井檀林
中世の門流にかわって学系を形成し、法類となる。
江戸時代
 多くの新寺院が建立される
 養珠院(家康の側室)…伊豆・妙法華寺、駿河・蓮華寺
 寿福院(前田利家夫人)…能登・妙成寺
 徳川頼宣…紀州・養珠寺、大野・本遠寺
 水戸光圀…久昌寺・三昧堂檀林
 他、前田利常・加藤清正・能勢頼次・小早川秀秋らの武将が領内に多くの寺院を建立
 文化人…長谷川等伯・本阿弥光悦・松永貞徳・狩野探幽・俵屋宗達など
 祈祷修法…身延流(日閑)・中山流(日実)→庶民層に浸透
 祖師信仰…池上本門寺・中山法華経寺・堀之内妙法寺など→現世利益
◎近代の日蓮宗
 明治9年(1876) 日蓮宗(池上本門寺・京都本圀寺・同妙顕寺・中山法華経寺を大本山 とする一致派各門流を統合)
     勝劣派…妙満寺派、興門派、八品派、本成寺派、本隆寺派
 明治31年…妙満寺派→顕本法華宗、八品派→本門法華宗、本成寺派→法華宗、
                       本隆寺派→本妙法華宗
 明治33年…興門派→日蓮宗富士派→日蓮正宗
 日蓮宗大学林(明治37年)→日蓮宗大学→立正大学(大正13年)
 祖山大学院→祖山学院→身延山専門学校→身延山短期大学→身延山大学
新興宗教
  霊友会(久保角太郎・小谷キミ)→分派(孝道教団・妙道会・思親会・立正佼成会)
  創価教育学会(牧口常三郎)→創価学会

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平成13年9月12日(水) 実台寺信行会(第二十七回)資料
日蓮聖人滅後の日蓮宗(その2)
日蓮聖人滅後の日蓮宗(その2)

◎ 日像の京都弘通
  日像(1269〜1342) 帝都開教の祖。
  • 下総・平賀(現、松戸市)生まれ。7歳で日朗の弟子となる。
  • 経一丸と(日蓮聖人から)命名される。
  • 日蓮聖人入寂→「帝都弘通・宗義天奏」を遺嘱される。日像と改名。
  • 元仁元年(1293)、25歳、上京を決意。→細字法華経を書し、鎌倉・由比ガ浜にて百日間の荒行。
  • 北陸経由で上京。途中、能登・加賀・若狭・近江に多くの化跡を残す。
  • 京都の街角で熱烈な弘教活動 →有力な商工業者の帰信を得る。 →
  • 他宗からの弾圧→3度の京都追放→3度の赦免 (「三黜三赦」という)
  • 数々の迫害の末、元亨元年(1321)、京都弘通の勅許を得る。→妙顕寺を創建。
  • 建武元年(1334)綸旨を賜り教団最初の勅願寺となる。(上洛40年で一宗弘通の公許得た)
  • 四条櫛笥西頬に寺領を賜る。→四条門流
  • 妙顕寺---京都日蓮教団の中心的役割。 74歳にて入寂。
 弟子の大覚
近畿・中国に布教→備前一国を改宗させる(「備前法華」の名を得る)
延文3年(1358)祈雨の効験により、大僧正を賜る。
同時に、日蓮聖人に大菩薩号、日朗・日像上人に菩薩号を賜る
◎ 諸師の上洛
日靜---足利尊氏の甥(?)、その外護により京都に本国寺(のち、本圀寺)創建。六条門流。
日什---天台宗から改宗。京都・妙満寺創建。 弟子に、日仁、日実。

日親 (1407〜1488)
  • 上総・埴谷(現、千葉県山武町)生まれ。
  • 妙宣寺・日英の弟子。後、法華経寺日薩の弟子に。
  • 京都・鎌倉で布教、実力は突出。→中山門流の若き精鋭→九州総導師職に。
  • 不受不施・強義折伏の厳格な信仰態度(身軽法重、死身求法---身は軽く法は重し、身命を捧げて法を弘む)→中山から破門される。
  • 将軍・足利義教に諌暁→2度目に捕らえられ、苛酷な拷問。→義教殺害され、放免。
  • 京都・本法寺建立。 本阿弥本光の外護を受ける。 82歳入寂。
◎ 勢力の伸展
「京都の半分、法華宗」「当時法華宗の繁盛は耳目を驚かすものなり」(応仁の乱の頃)
天文(1532)の頃---町衆の宗教となる。「京都に法華宗繁盛して、毎月2ヶ寺・3ヶ寺ず つ寺院出来し、
            京中大方題目の巷となり、」
 天文の法難---天文5年(1536)、本山21ヶ寺すべて焼失。
後、本山16ヶ寺復興。
◎日朝の身延山改革
 
  日朝(1422〜1500)---身延中興の祖
  • 応永29年、伊豆・宇佐美(現、伊東市)生まれ。8歳で三島・本覚寺に入門。
  • 比叡山・京都・奈良などを遊学、諸宗の学問に通達。
  • 本覚寺を継承、寛正3年(1462)、41歳で身延山第11世に晋山。
  • 身延山・日蓮教団の発展の基礎を築く。(護持経営・教学の興隆・門下の教育・教線の拡張など)
  • 狭い西谷から現在地に諸堂を移転。
  • 多くの著述
    「御書見聞」四十四巻(ご遺文の蒐集・書写・注釈)
    「元祖化導記」二巻(日蓮聖人の伝記)
    「補施集」百十二巻・「法華講演抄」三十六巻・「法華草案抄」十二巻 (以上、法華経関係の著書)
    「弘経用心抄」五巻・「当家朝口伝」二巻(宗義書) 
  • 学習会
    「三日講」、「立正会問答」、「例講問答」などを催して門下を教育。
◎西国の布教
 大覚(日像の弟子)---三備(備前・備中・備後)→「備前法華」の基礎を築く
 日華(日興の弟子)---讃岐(香川県)
 日叡(日興の弟子)---日向(宮崎県)
 日厳・日貞(中山門流)---肥前(佐賀県)
◎東国の布教
 日朗門流(妙本寺)---鎌倉・有力商工業者
 日出(身延門流)---鎌倉・本覚寺
       永享の法難…永享8年(1436)、一乗坊日出と天台宗の心海との宗論が発端。管領・足利持氏が、日蓮宗の僧侶は流罪、
                                武士の信者は所領召し上げ、一般信者は打ち首と決めて閻魔堂前に集まるよう指示。→「鎌倉の人々上下を
                                えらばずうちむれうちむれ、一門一家われもわれもと出でしほどに、面 に立つ人数六十余人なりき」→管領持氏
                                 は驚いて「日蓮宗のことについてご罪科あるべからず、おのおの赦免して返すべし」→これを聞いて信者たちは
                                「身を捨てんと思い定めしに、上意かくのごとくありしかば、夢のさめたる様にて、おのおの退散」していった。

 中山門流---法華経寺(千葉氏)、下総地方
 日泰(日什門流)---上総の領民全員を改宗・皆法華地域とする。→「上総七里法華」

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平成18年5月12日(金) 実台寺信行会(第六十七回)資料
日蓮聖人と女性信徒(その1)
1.千日尼(せんにちあま)・国府尼(こうのあま)

@佐渡配所での様子

  日蓮聖人の佐渡在島期間 文永8年(1271)10月〜文永11年(1274)3月 2年5ヶ月
○今年今月、万が一も身命を脱(のが)れがたきなり。(「顕仏未来記」)
○日蓮臨終一分も疑いなし。刎頭の時はことに喜悦あるべく候。(「富木殿御返事」)
○彼の国へ赴く者は死は多く、生は希なり。(「法蓮鈔」)
○塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし。上はいたま(板間)合はず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所に、しきがは(敷皮)打しき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹雷電ひまなし。昼は日の光もさゝせ給はず。心細かるべきすまゐなり。(「種種御振舞御書」)
A千日尼・国府尼の供養
 
  阿仏房→ 
順徳上皇に仕える北面の武士で遠藤為盛といった。上皇佐渡配流の時お供で付いて来る。上皇崩御の後、入道して真野御陵の近くに住み、夫婦で菩提を弔っていた。毎日、念仏三昧の生活だったので土地の人は、阿仏房と呼んだ。日蓮聖人を亡き者にしようと刀を持って三昧堂を襲うが、聖人の教えを聞いて熱心な信者となる。
  千日尼→ 
阿仏房の妻。夫と共に日蓮聖人に帰依し、佐渡における聖人の有力な外(げ)護(ご)者となった。その千日尼の法号は、聖人が在島した二年五ヵ月の間、約一千日間の尼の供養に因んで授けられたものといわれる。

  国府入道(こうにゅうどう)→ 
佐渡の国雑(さわ)太(だ)郡(真野町近郷)の国府の近くに住んでいた入道。近くに住んでいた阿仏房夫妻と共に日蓮聖人に帰依した。
  国府尼→ 
国府入道の妻。阿仏房夫妻と同様、苦しい耐乏生活を余儀なくされていた佐渡流罪中の聖人に一身をかけて給仕・供養した篤信者であった。
日蓮聖人が身延に籠もった時、国府入道を使として聖人に安否を尋ね単衣一領を贈ったが、これにたいする返事が『国府尼御前御書』である。
○〔訳文〕日蓮が佐渡の国へ流されたので、佐渡の守護職にあたっている人らは、国主の命に随って日蓮を敵視するのである。万民もまたその命に随っている。(中略)なんとも命が助かるとは思えなかった。諸天の御はからいについては、さておくことにしよう。地頭という地頭等、念仏者という念仏者等は、すべて日蓮の庵室に昼夜に立ち添って、尋ねて来る人々を迷わせ、日蓮に会わせないように妨害しているなかで、あなたは夫の阿仏房に櫃を背負わせて、夜暗にまぎれたびたび尋ねて来てくれたことは、いつの世になっても忘れることはできないことである。ただごととも思えない。日蓮の母が佐渡の国へ生まれ変わってこのようにしむけてくれているのではなかろうか。(「千日尼御前御書」)
〔原文〕日蓮佐渡の国へ流されたりしかば彼国の守護等は国主の御計ひに随ひて日蓮をあだむ。万民は其の命に随う。(略)いかにも命たすかるべきやうはなかりしに、天の御計ひはさてをきぬ、地頭々々等念仏者々々々等日蓮が庵室に昼夜に立ちそいて通う人あるをまどわさんとせめしに、阿仏房に櫃をしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡の国に生れかわりて有るか。
○〔訳文〕またそのためにあるいは住む所を追われ、あるいは科料に処せられ、あるいは住宅を取り上げられたりしたが、ついにわが意を通して、心をひるがえさなかった。(「千日尼御前御書」)
〔原文〕またその故に或は所を追い、或は科料をひき、或は宅をとられなんどせしに、ついに通らせ給ぬ。
○尼ごぜん並に入道殿は彼の国に有る時は人めを怖れて夜中に食を送り、或時は国のせめをもはばからず、身にも替わらんとせし人々なり。(「国府尼御前御書」)
   日蓮聖人は上のように述懐され、阿仏房夫妻や国府入道夫妻の供養を感謝している。

B阿仏房の身延訪問
尼たちは、身延に入山された日蓮聖人を追慕し、夫たちに身延行きを頼んでいる。阿仏房は、文永11年と建治元年(1275)6月と弘安元年(1278)7月の三度までも、佐渡から90歳という高齢にも拘らず身延を訪れている。
○すでに五ケ年が間、この山中に候に、佐渡の国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく、大海よりもふかき御心ざしぞかし。(「千日尼御前御書」)
○阿仏房を見つけて、尼ごぜんはいかに、こう入道殿はいかにと先づ問いて候つれば、いまだ病まず、こう入道殿は同道にて候つるが、早稲はすでに近づきぬ、子はなし、いかんがせんとて返られ候つると語り候し。(『千日尼御前御返事』)
○こう入道殿の尼ごぜんの事、なげき入って候ふ。またこいしこいしと申しつたへさせ給へ。鵞目一貫五百文・のり・わかめ・ほしい(干飯)・しなじなの物給ひ候ひ了んぬ。法華経の御宝前に申し上げて候ふ。(『千日尼御返事』)
C阿仏房の息子・藤九郎守綱の身延訪問

 藤九郎守綱が身延の聖人を訪れ、父・阿仏房の墓参をした砌、聖人は千日尼に宛てて「子にすぎたる財なし」と守綱を誉め、併せて尼を慰められている。
○〔訳文〕その子の藤九郎守綱は父の遺志を継いで熱心な法華経の行者となって、去年は七月二日、父の遺骨を首にかけ、一千里の山を越え海を渡って甲州波木井の身延山に登り、法華経の道場に納骨を済ませ、今年はまた七月一日、身延山に登って慈父の墓を拝みました。子ほどすばらしい財宝はありません。子よりも秀れた財宝はありません。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。(『千日尼御返事』)
〔原文〕その子藤九郎守綱はこの跡をつぎて一向、法華経の行者となりて、去年は七月二日、父の舎利を頸に懸け、一千里の山海を経て甲州波木井身延山に登りて法華経の道場にこれにおさめ、今年はまた七月一日身延山に登りて慈父のはかを拝見す。子にすぎたる財(たから)なし、子にすぎたる財なし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
○〔訳文〕故阿仏房の聖霊は今どこにおいでになることだろうかと人は疑問に思うかも知れませんが、法華経の澄んだ鏡に影を映してみれば、霊鷲山にそびえている多宝塔の中に、東向きに坐って、釈迦・多宝の二仏と対面していらっしゃるお姿が、私には拝見できるのです。
〔原文〕故阿仏房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑ふとも、法華経の明鏡をもつてその影をうかべて候へば、霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に、東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候ふ。(『千日尼御返事』)

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平成18年6月12日(月) 実台寺信行会(第六十八回)資料
日蓮聖人と女性信徒(その2)
領家の大尼(おおあま)・新尼(にいあま)(安房)

1.大尼と新尼
大尼→「領家の尼」ともいう。領家とは、荘園の在地領主のこと。安房国東条郷の領主が世を去ったのでその未亡人は尼となり、「領家の尼」・「領家の後家尼」といわれた。
新尼→「領家の尼」の息子に嫁を迎えたが、その息子がまた若くして世を去ったので、嫁もまた後家尼となった。
そこで、領家の尼のことを「大尼」、子の嫁のことを「新尼」と呼んだ。
*領家…荘園において本家に次ぐ地位にある領有者。本家は名義上の領有者で、領家が実際に荘務の権利をもつ場合が多い。領主ともいうが、普通、領主が三位以上の位階を持つ者である場合に領家といった。
2.大尼(領家の尼)の恩
「日蓮が父母等に恩をかほらせたる人」『清澄寺大衆中』
  (訳:日蓮の父母が御恩を受けた人でもありますので)

「日蓮が重恩の人」『新尼御前御返事』
  (訳:大尼御前は、私が重恩を蒙った方ですから)
【解説】大尼は、日蓮聖人はもとよりその両親も恩を受けた人である。聖人が12歳の時に清澄山に入って勉学修行するのを斡旋したり、また、南都北嶺遊学の時に学資等を負担したものと思われる。
聖人はこの報恩のため、この地の地頭東条景信が領家方の荘園を侵略しようとした際に、領家の側に立って大尼に味方し、裁判を勝訴に導いた。こうした関係で領家の尼は聖人に帰依し法華信仰の道に入った。
*聖人と念仏者東条景信との間には、宗教的対立があったが、その上に、東条郷の領主権をめぐる現実的利害の対立が加わり、景信の聖人に対する怨みは決定的となり、小松原法難の原因となった。

3.大尼と新尼の信仰
大尼の信仰
「領家はいつわりをろかにて或時は信じ、或時はやぶる不定なりしが、日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給ひき」『新尼御前御返事』
(訳:領家の大尼御前は、頼りにならない愚かもので、私の教えを、ある時は信じ、ある時は疑って、ふらふらしていましたが、私が佐渡に流された時に、とうとう法華経をお捨てになりました。)
【解説】大尼の信仰は不定で動揺しやすいものであった。聖人が龍ノ口の法難に遭い、弟子・信徒が厳しい弾圧を受けると、かかわりを恐れてたちまち心変わりし信心を捨ててしまった。
新尼の信仰
「御事にをいては御一味なるやうなれども、御信心は色あらはれて候ふ。」
『新尼御前御返事』
(訳:あなたの場合は、大尼御前の御一族ですから、行動はともにされているようですが、ご信心については目に見えてしっかりしていらっしゃいます。)

【解説】多くの弟子・信徒が脱落・退転する中で、新尼は断固信心を貫いた。上記によっても、聖人に対しても帰依の念が深かったことがわかる。

4.本尊の授与と拒絶
大尼御前からの依頼に対して
「ただ大尼御前の御本尊の御事おほせつかはされておもひわづらひて候ふ。(中略)日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために、この御本尊をわたし奉るならば、十羅刹定めて偏頗の法師とをぼしめされなん。」『新尼御前御返事』
【偏頗】かたよること。不公平。えこひいき。

(訳:さてさて大尼御前がご本尊の授与を希望なさっているとうかがって困惑しています。(中略)大尼御前は、私が重恩を蒙った方ですから、その現世安穏・後生善処のために、ご希望通りご本尊をお授けしたい気持ちもあるのですが、それをしたならば、法華経の守護神である十羅刹女が、私を私情におぼれた偏頗な法師であるとお思いになるでしょう。)
新尼への授与
「さどの国と申し、此国(身延)と申し、度々の御志ありて、たゆむけしきはみへさせ給はねば御本尊はわたしまいらせて候ふなり。」『新尼御前御返事』

(訳:私が佐渡の国に流されていたころといい、この身延山に隠棲してからといい、少しも変わらずたびたびご芳志を示されて、怠る様子がお見えにならないので、ご本尊はお授けいたしました。)

【解説】聖人の身延入山後、その女新尼を介して再び門下に還り、本尊の授与を願ったが、聖人はその信仰の確立していないことを指摘して、本尊の授与を拒絶した。
俗世の上からは重恩の人であるので、本尊を授与したいとは思うが、しかし法の上からは偏頗なことがあってはならない。本尊を授与すれば偏頗な法師となり、経文にもそむくことになるという理由である。聖人が法の立場をあくまでも貫き通した厳格な姿勢を知ることのできる、注目すべき御書といえる。

5.大尼への祈念
「領家の尼ごぜんは女人なり、愚痴なれば人々のいひをどせばさこそとましまし候らめ。されど恩を知らぬ人となりて、後生に悪道に墜させ給はん事こそ、不便に候へども、又一には日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なれば、いかにしても後生をたすけたてまつらんとこそいのり候へ」『清澄寺大衆中』

(訳:領家の尼御前は女性であり、愚かな人でありますから、人びとに嚇(おど)かされて日蓮の教えに背いたのでありましょう。しかし、法華経の御恩を忘れて、来世に悪道に堕ちることはいかにも気の毒でありますし、また日蓮の父母が御恩を受けた人でもありますので、なんとかして地獄に堕ちることから助けてあげたいと祈っているのです。)

【解説】聖人は、こののち、その後生善所を祈念している。情理を兼ねた聖人の人柄が偲ばれる。
「新尼御前御返事」日蓮聖人が文永12年(1275)2月16日、54歳のとき身延山から、安房東条付近の領家の嫁尼に送られた御書。『与東条新尼書』とも呼ばれている。


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平成18年7月12日(水) 実台寺信行会(第六十九回)資料
日蓮聖人と女性信徒(その3)
「日妙尼(乙御前の母)」について

  〔資料〕
「日妙聖人御書」文永9年(1272)5月25日、51歳、於佐渡一谷、(約3000文字)
「乙御前母御書」文永10年(1273)11月3日、52歳、於佐渡一谷、(約600文字)
「乙御前御消息」建治元年(1275)8月4日 54歳、於身延、(約3500文字)
「一谷入道御書」建治元年(1275)5月8日、54歳、於身延、一谷入道女房宛、
日蓮聖人: 文永8年(1271)9月竜口法難、10月佐渡流罪 
文永11年(1274)2月赦免、5月身延入山

1.乙御前の母
乙御前の母…(生没年未詳)鎌倉在住の女性檀越。日蓮聖人佐渡配流中、文永9年5月、女人の身に幼い女児(乙御前)をつれて鎌倉からはるばる佐渡へ赴いて、聖人を訪ねたほどの熱心な信者である。これに対して聖人からとくに「日本第一の法華経の行者の女人」として「日妙」の法号と『日妙聖人御書』を授けられた。この書によれば、この時すでに夫と離別し出家して尼となっていたことがわかる(死別か生別かは不明)。さらに、身延にも訪ねている。
しかれども一(ひとり)の幼子あり。あずくべき父もたのもしからず。離別すでに久し。(「日妙聖人御書」)
乙御前の母がいつ頃信徒になったかは明らかではないが、文永8年の信徒に加えられた大弾圧にもくじけずに信を貫いていた。教養があり、仏教の理解も深く、熱烈な信仰心を持った女性であった。
2.佐渡来島の時の御書
毎日、死を賭して生活している日蓮聖人を驚かせ感動させたのは、乙御前母子の来島であった。子連れの女の一人旅は危険極まりないものだった。その壮挙を絶賛し、法号を与える。
その帰途に追って発信したのが「日妙聖人御書」である。
「玄奘は西天に法を求めて十七年、十万里にいたれり。伝教御入唐ただ二年なり、波濤三千里をへだてたり。これ等は男子なり。上古なり。賢人なり。聖人なり。いまだきかず、女人の仏法をもとめて千里の路をわけし事を。…いまだきかず、仏法にかしこしとは。…今実語の女人にておはすか。まさに知るべし、須弥山をいただきて大海をわたる人をば見るとも、この女人をば見るべからず。砂をむして飯となす人をば見るとも、この女人をば見るべからず。まさに知るべし、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏、上行・無辺行等の大菩薩、大梵天王・帝釈・四王等、この女人をば影の身にそうがごとくまほり給ふらん。日本第一の法華経の行者の女人なり。故に名を一つたてまつりて不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等云云。」(「日妙聖人御書」)
【訳】(中略)未だに聞いたことがありません。女性が仏法の教えを求めて千里もの遠路にもかかわらず訪ねきたということを。(中略)まさにあなたは、その仏の真実のおことばを信じる女性でいらっしゃる。確かに云えることは、須弥山を抱いて大海を歩き渡る人を見つけることができたとしても、前記のような女性を発見することは困難だということです。(中略)大梵天王・帝釈天・四天王らの尊者たちが力を合わせて、前記の女性を、影の身に添うようにお護りくださるに違いないということです。そのような意味で、まさにあなたは日本第一の法華経の行者の女性であります。そこで法名をひとつおつけ申し上げて、常不軽菩薩が人々の未来成仏を保証なさった故事の跡を踏むことにいたしましょう。法名を「日妙聖人」と号します。
相州鎌倉より北国佐渡の国、その中間一千余里に及べり。山海はるかにへだて山は峨峨、海は濤濤。風雨時にしたがう事なし。山賊海賊充満せり。すくすくとまりとまり(宿々泊々)民の心虎のごとし犬のごとし。現身に三悪道の苦をふるか。その上当世の乱世去年より謀叛の者国に充満し、今年二月十一日合戦。それより今五月のすゑ、いまだ世間安穏ならず。しかども一(ひとり)の幼子あり。あづくべき父もたのもしからず。離別すでに久し。かたがた筆も及ばず。心わきまへがたければとどめ了んぬ。(「日妙聖人御書」の結び)
【訳】あなたが相州鎌倉からわざわざ訪れてくださったここ北国佐渡の国までは、その間一千余里に及びます。山・海をはるかに隔てており、山は峨々としてそびえ、海は濤々として高鳴り、風雨が時を定めず襲いかかり、山賊や海賊がのさばりまわっています。宿泊を重ねた所々の人の心は、虎のように犬のように恐しいものです。生身のままで三悪道の苦しみを経験したように思われます。その上、今は世が乱れて、去年から謀叛者が国に満ちあふれ、今年の二月十一日に合戦があって、それから現在五月の末まで世間は不安な状態が続いています。そうだというのに、あなたは一人の幼な子をかかえており、その子を養育するはずの父親はいません。離別してからもうずいぶん久しいですね。それらのことを思えば、お気の毒で筆を進めることもできなくなります。胸がつまって考えがまとまりませんので、これで止めます。ごめん下さい。
 ※旅費の工面で借金
鎌倉の尼の還りの用途に歎きし故に、口入(くにゅう)有りし事なげかし。(「一谷入道御書」)

【訳】鎌倉の尼が、(日蓮の身を案じてはるばる訪ねてくれたところが)帰りの旅費が不足して途方に暮れていたので、気は進まなかったが、法華経をお渡しするという約束で、借金をお願いしたのであった。
3.佐渡からの御書

たびたび書簡を送っていたことがわかる。また、乙御前の母が鎌倉の日蓮聖人の弟子にもいろいろ援助していたことも記されている。
いまは法華経をしのばせ給ひて仏にならせ給ふべき女人なり。かへすがへす、文(ふみ)ものぐさき者なれども、たびたび申し候ふ。また御房たちをも不便(ふびん)にあたらせ給ふとうけ給はる。申すばかりなし。(「乙御前母御書」)
【訳】あなたは、もはや法華経への信仰心が浸みわたって、当然、成仏なさる女性です。手紙というものは面倒なものですけれども、このことは大切なことなので、たびたび申し上げる次第です。それから、鎌倉にいる弟子の僧侶方に対しても、いろいろとご外護くださっていると聞いております。感謝の気持はことばで言いつくせないほどです。
4.身延からの御書

日妙は、建治元年(1275)に身延に入山された聖人を訪問する。それを踏まえ、寡婦である日妙を励まし支える。
此世に夫ある女人すら、世中渡りがたふみえて候に、魂(夫)もなくして世を渡らせ給が、魂ある女人にもすぐれて心中かひがひしくおはする上、神にも心を入れ、仏をもあがめさせ給へば、人に勝ておはする女人也。(中略)御勘気をかほりて佐渡の島まで流されしかば、問訪人もなかりしに、女人の御身としてかたがた御志ありし上、我と来り給し事、うつつならざる不思議也。其上ま(今)の詣で又申ばかりなし。人の心かたければ、神のまほり必つよしとこそ候へ。是は御ために申ぞ。古への御心ざし申計なし。(「乙御前御消息」)
いかなる事も出来候はば是へ御わたりあるべし。奉(みたて)見(まつらん)。山中にて共に餓死(うえじに)にし候はん。又乙御前こそ、大人(おとな)しくなりて候らめ。いかにさかしく候らん。又又申べし。八月四日 日蓮〔花押〕 乙御前へ
【訳】どんなことでも困ったことができたら、こちらへお出でなさい。お会いしましょう。場合によっては、山の中で一緒に飢え死にしましょう。また、乙御前ちゃんは大きくなったでしょうね。どんなにか賢くなっていることでしょう。また、お手紙します。(「乙御前御消息」)

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平成18年8月12日(土) 実台寺信行会(第七十回)資料
日蓮聖人と女性信徒(その4)
「妙一尼」について
〔資料〕
「妙一尼御返事」文永10年(1273)、52歳、於・佐渡一谷 約 170文字
「弁殿尼御前御書」文永10年(1273)、52歳、於・佐渡一谷 約 350文字
「妙一尼御前御消息」建治1年(1275)、54歳、於・身延 約1500文字
「妙一尼御前御返事」弘安3年(1280)、59歳、於・身延 約1500文字
〔参考〕日蓮聖人:
文永8年(1271)9月竜口法難、10月佐渡流罪 
文永11年(1274)2月赦免、5月身延入山
1.妙一尼(みょういちあま)
(生没年未詳)鎌倉・桟敷(さじき)に在住した女性檀越。桟敷の地に居住していたので「さじきの女房」「さじきの尼御前」とも称する。

印東三郎左衛門祐信(日蓮聖人書状の「兵衛のさえもんどの」)の妻で弁阿闍梨日昭上人の母であるという説がある。その真偽は定かでないが、日昭上人と縁が深かったことは確かである。

*桟敷という地名は、源頼朝が常栄寺裏の山上に由比ヶ浜を遠望するために桟敷を作ったことがその由来という。

2.賛辞
夫と共に日蓮聖人の熱心な信奉者であった。聖人の佐渡配流後、信者の身にも弾圧が及び、所領を没収され零落するが、健気に信心を貫き、下男の滝王丸を佐渡に派遣して給仕させる。佐渡流謫中に夫が死に、幼な子が残されたが、聖人への節を曲げることなく外護した。

弟子等檀那等の中に臆病のもの、大体或はをち、或は退転の心あり。尼ごぜんの一文不通の小心に、いままでしりぞかせ給はぬ事、申すばかりなし。(「弁殿尼御前御書」)

〔日蓮の弟子・檀越のなかの臆病な者は、たび重なる迫害によっておおよそは法華信仰から離れ、残ったものも心は既に離れているものもいます。だが、尼御前は仏法を知らない心小さい身でありながら、いままで信仰を強く持ちつづけてこられたのは、まことに健気なことです。〕

故聖霊は法華経に命をすててをはしき。わづかの身命をささえしところを、法華経のゆへにめされしは命をすつるにあらずや。(「妙一尼御前御消息」)

〔亡きご夫君は、法華経のために命をお捨てになりました。細々と命を支えるだけの所領を、法華経のために召し上げられたのですから、法華経に殉死したことになりましょう。〕

自身のつかうべきところに、下人を一人つけられて候事、定めて釈迦・多宝・十方分身の諸仏も御知見あるか。(「弁殿尼御前御書」)

〔自分のそばにいた下僕一人を、わざわざこの佐渡島まで遣わされ日蓮を助けられた志は、必ず釈迦・多宝・十方分身の諸仏も賞嘆されることでしょう。〕

3.気遣い
かの心のかたがたには、また日蓮が事、心にかからせ給ひけん。仏語むなしからざれば、法華経ひろまらせ給ふべし。それについては、この御房は「いかなる事もありて、いみじくならせ給ふべし」と、おぼしつらんに、いうかいなくながし失せしかば、「いかにやいかにや法華経・十羅刹は」とこそをもはれけんに、いままでだにも、ながらえ給ひたりしかば、日蓮がゆりて候ひし時、いかに悦ばせ給はん。(「妙一尼御前御消息」)

〔また、亡きご夫君は、心の一方では、私のことが気になっていらっしゃったと思います。仏のお言葉には嘘がないので、法華経は必ずお弘まりになるでしょう。それにつけても、亡きご夫君は「日蓮が迫害されているような事態も好転して、法華経が隆盛になられるであろう」と思っていらっしゃったでしょうに、なかなかそうはいかず、幕府が理不尽にも私を配流したので、その時点では「これはどうしたことか。法華経や十羅刹女の守護はないのか」と私も思ったものですが、結局はこうして健在でいられる身になったのですから、もしご夫君が今まで生き長らえていらっしゃったならば、私が佐渡流罪を免された時に、どれほどお喜びくださったことでしょう。〕

それ天に月なく日なくば、草木いかでか生ずべき。人に父母あり、一人もかけば子息等そだちがたし。その上、過去の聖霊は或は病子あり。或は女子あり。とどめをく母もかいがいしからず。だれにいゐあつけてか、冥途にをもむき給ひけん。(「妙一尼御前御消息」)

〔およそ、天に月がなく日がなかったならば、草木はどうして生長できるでしょうか、生長することができません。そのように、人には父と母とがいますが、その一人でも欠けると子どもは育ちにくいものです。ただでさえそうであるのに、亡きご夫君には、病の男児もいれば女児もあり、おまけに、年老いて残る母も壮健ではないのですから、それらの心配の種を誰に托して冥途へ旅立ちなされたことでしょうか。〕

4.励まし
力あらばとひまいらせんとをもうところに、衣は一つ給ぶでう、存外の次第なり。法華経はいみじき御経にてをはすれば、もし今生にいきある身ともなり候ひなば、尼ごぜんの生きてもをわしませ、もしは草のかげにても御らんあれ。をさなききんだち(公達)等をば、かへりみたてまつるべし。 さどの国と申し、これと申し、下人一人つけられて候ふは、いつの世にかわすれ候ふべき。この恩はかへりてつかへ(仕)たてまつり候ふべし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐恐謹言。(「妙一尼御前御消息」)

〔私も、体力が許すものならばそちらへお尋ねしようと思っていたところなのですが、かえって衣を一着お送りいただきましたこと、思いがけずありがたいことです。法華経はことさらにすぐれたお経ですから、そのご利益によって、この世に生き長らえる身となりましたら、あなたがご健在であっても、あるいは万一のことがおありになったとしても、どうぞご覧になってください。幼いお子さまたちのお世話は必ずいたしますから。 佐渡の国といい、ここ身延といい、召使いを一人遣わしてくださったことは、いつの世にも忘れられないほどありがたく思っています。このご恩は、生まれ変わってからお返しいたしましょう。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経〕

法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかず、みず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となる事を。経文には、「もし法を聞く者有れば、一として成仏せざるは無し」ととかれて候ふ。(「妙一尼御前御消息」)

今法華経を信じている人は寒い冬のようなものです。冬は必ず花の咲く春になります。まだ昔から聞いたことも見たことがないでしょう、冬が秋に逆戻りしたなどということを。そのように、まだ聞いたことがありませんよ、法華経を信奉する人が成仏をしないで凡夫のままでいるということを。だから法華経の方便品には「もし、法華経を聞くことがあろう者は、一人として成仏しないことがない」と説かれているのです。

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平成18年9月12日(月) 実台寺信行会(第七十一回)資料
日蓮聖人と主要檀越(その1)
「龍口法難」と「四条金吾」
〔資料〕
「同姓同名御書」 文永9年 (1272)、51歳、於佐渡一谷 対告衆:四條金吾女房 
「四條金吾殿御返事」 建治2年(1276)、55歳、於身延
「下山御消息」 建治3年(1277)、56歳、於身延、
「崇峻天皇御書」 建治3年(1277)、56歳、於身延、
「種種御振舞御書」 建治元年(1275)、54歳、於身延、
〔参考>日蓮聖人:
文永8年(1271)9月竜口法難、10月佐渡流罪 
文永11年(1274)2月赦免、5月身延入山
龍口法難(文永8年の法難)
【発端】
文永5年(1268年)蒙古の国書到来。 北条時宗に再度「安国論」上呈。弟子・信徒の数も増え、日蓮一門の勢力拡大。 幕府権力者や諸大寺の権力僧たちは、黙殺できなくなる。

「日蓮とその門弟は、諸宗を否定する異端者で、凶徒を室中に集め、兵杖等を蓄えている危険な存在」として、幕府に訴える。聖人は、尋問に対して明快に反論・論破、平頼綱に対し諫暁。

「法主国従」(法を主とし、国を従とする。教権の前には俗権を認めず、国王国主といえども法華経に背けば大罪人である。)を主張し、謀反人と裁断される。

【逮捕】
経文色読(しきどく)(経文を身体で読む=体験する。)
文永8年9月12日、午後4時過ぎ、平頼綱は兵数百人を連れて、松葉が谷の草庵を急襲。聖人は逮捕され、持っていた法華経第五の巻でさんざんに打たれる。

「うつ杖も第五の巻、うたるべしという経文も五の巻、不思議なる未来記の経文なり。」(上野殿御返事) 「諸の無智の人、悪口・罵詈等し、及び刀杖を加うる者有らん、我等みなまさに忍ぶべし」(法華経巻五 勧持品)→経文がまさに事実となったと感動。 「日蓮大音声を放ちて申す。あらおもしろや、平左衛門尉が物にくるうを見よ。とのばら(殿原)ただ今ぞ日本国の柱をたをす。」(種種御振舞御書)

【八幡諫暁】
逮捕された聖人は、謀反人の如く鎌倉市中を引き回されたが、堂々と少しも臆するところなく、鶴岡八幡宮の前ではなぜ法華経の行者を守護しないのかと八幡大菩薩を叱咤諫言し、頼綱など警護の武士を狼狽させている。

「日蓮云く、各々さわがせ給ふな。べち(別)の事はなし。八幡大菩薩に最後に申すべき事あり、とて馬よりさしをりて高声に申すやう。いかに八幡大菩薩はまことの神か。(中略)。さて最後には、日蓮今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神・正八幡こそ起請を用ひぬかみにて候けれと、さしきりて教主釈尊に申し上候はんずるぞ。痛しとおぼさば、いそぎいそぎ御計らひあるべし、とて又馬にのりぬ。」(種種御振舞御書)

【片瀬・龍口の刑場】
翌13日午前1時頃、鎌倉を出、相模の依智に向かう。依智の本間六郎左衛門尉(佐渡の守護代)が佐渡へ連行するという名目であった。しかし、深夜の出立は不自然と思われたが、やはり片瀬の龍口にあった幕府の刑場に至ると馬から下ろされ首の座に据えられた。

まさに処刑されんとする時、突如不思議な天変が起き、危うく命拾いする。

「案にたがはず、去ぬる文永八年九月十二日に、すべて一分の科もなくして佐土の国へ流罪せらる。外には遠流と聞へしかども、内には頸を切ると定めぬ。」(下山御消息)

「江の島のかたより月のごとくひかりたる物、鞠のやうにて、辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ、人の面もみへざりしが、物のひかり月夜のやうにて、人々の面もみなみゆ。太刀取り目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れ、興醒めて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり。」(種種御振舞御書)

ぼたもち供養…日蓮聖人が龍ノ口の刑場へ連行される途中、桟敷尼という老女がありあわせの胡麻をまぶした〈ぼたもち〉を鍋蓋にのせて供養した。聖人は感謝していただき、その鍋蓋にお題目を書いて与えられた、といわれる。

四条頼基 四条三郎左衛門尉頼基
名門北条氏の近縁に当る江馬光時(名越の領主)に、父の代から仕えた実直な鎌倉武士である。役職・左衛門尉の唐名が左金吾校尉であるところから、一般には「四条金吾」と称された。27歳(1256年)のとき禅宗から日蓮聖人に帰依して法華経の信奉者になった。

四大檀越…富木常忍(下総)、四条頼基(鎌倉)、池上宗仲・宗長(武蔵)、南条時光(駿河)
○決死の覚悟で聖人に随従した
竜口法難の折には、聖人を竜口の刑場に護送する馬の口にとりついて同行した。 「返す返す今に忘れぬ事は頸切れんとせし時、殿は供して馬の口に付きて、泣き悲しみ給ひしをば、いかなる世にか忘れなん」(崇峻天皇御書)
○教学的にも勝れ、鎌倉における聖人門下の中心的人物であった。
代表的著作『開目抄』が、まずもって鎌倉の頼基のもとに遣わされた。
○強盛な信仰心の持ち主であった
佐渡の流地にあった聖人に、必要な品物を取り揃えて度々使者に届けさせている。
佐渡の流地に聖人を訪ね、親しく教示を仰ぎ、慰問、給仕した。
「はかばかしき下人もなきに、かかる乱れたる世に、此との(殿)をつかはされたる心ざし、大地よりもあつし」 (同生同名御書…四条金吾殿女房御返事)
○実直、至誠な性格の武人であった
京都六波羅の乱で主君光時が嫌疑をうけた時、伊豆の所領地にいた頼基は、主君の一大事に驚き、早馬にまたがり箱根を越えて、一気に鎌倉に帰り、主君に殉死すべき八人の家臣のうちに加わった。
○聖人の指示に従い助けられる
主君光時に、良観への信仰をやめ法華の正法に帰依するように勧めるが、聞きいれられず、かえって不興をかい、彼の伊豆の所領を越後に所領がえ(左遷)という事態をも迎える。そんな時はいつも聖人の指示を仰いだ。
※遠国越後では主君に急事があっても奉公に間に合わない。もし所領を召し上げられたとしても、自分は主君に捧げた身であるから、「すてられまいらせ候とも命はまいらせ候べし。後世は日蓮の御房にまかせまいらせ候」(四條金吾殿御返事)と聖人の教訓に従って主君に返答したので、この件は落着したようである。
○医術にたけていた
主君・光時は悪疫にかかり、また頼基を讒言した同輩も病気となった。手をつくしたが治らなかった。そこで医術にたけている頼基を召して治療をうけた。その結果、彼の誠意ある加療で快方に向い、同時に彼に対する勘気も氷解した。 聖人が身延で病気がちであった時も、彼は鎌倉から薬を送っている。
○晩年は身延に住む
聖人入滅の折は、葬送の列に御持経を捧持して連なり、また身延への納骨に供奉して参り、墓所のそばに一庵(のちの端場坊)を建てて常住供養したと伝えられる。

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平成18年10月12日(木) 実台寺信行会(第七十二回)資料
日蓮聖人と主要檀越(その2)
「お会式」と「池上宗仲・宗長」
〔資料〕
「兄弟鈔」         文永12年(1275)、54歳、於身延
「兵衛志殿御返事」    弘安元年(1278)、57歳、於身延
「上野殿母尼御前御返事」 弘安4年(1281)、60歳、於身延
「波木井殿御報」     弘安5年(1282)、61歳、於池上
身延から池上へ
弘安4年12月8日、60歳、身延にて
去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候ひて今年十二月八日にいたるまで、この山出づる事一歩も候はず。ただし八年が間やせやまいと申し、とし(齢)と申し、としどしに身ゆわく、心をぼれ(耆)候ひつるほどに、今年は春よりこのやまいをこりて、秋すぎ冬にいたるまで、日々にをとろへ、夜々にまさり候ひつるが、この十余日はすでに食もほとをど(殆)とどまりて候ふ。」(「上野殿母尼御前御返事」弘安4年(1281)12月8日、60歳)

【訳】私は去る文永十一年(一二七四)六月十七日にこの山に入りまして、弘安四年十二月八日の今日にいたるまで、一歩もこの山を出たことがありません。修行一途(いちず)に過ごしています。とはいっても、八年の間、やせ病(やまい)にかかったことや、老齢になったことやで、年々に体が衰弱し、心が散漫になってしまったのですが、とくに今年は、春からこの病気が発(おこ)って、秋を過ぎ、冬の今にいたるまで治まらず、体は日々に衰え、病は夜々に重くなって、この十日あまりはもう食事もほとんど喉を通らなくなりました。
弘安5年 61歳
9月8日:病状悪化し、身延を下山。常陸の湯を目指す。
道中と宿泊地 8日:下山、9日:大井庄、10日:曽根、11日:黒駒、12日:河口、13日:呉地、14日:竹の下、15日:関本、16日:平塚、17日:瀬谷
9月18日:武蔵国池上家に到着。
「やがてかへりまいり候はんずる道にて候へども、所らう(労)の身にて候へば、不定なる事も候はんずらん。さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを、九年まで御きえ候ぬる御心ざし申ばかりなく候へば、いづくにて死候とも、墓をばみのぶ沢にせさせ候べく候。」(「波木井殿御報」弘安5年(1282)9月19日、61歳・池上にて)
9月19日:波木井氏に到着を報告、「墓を身延に」と遺言。
9月25日:「立正安国論」を講義。
10月8日:6人の本弟子選定(六老僧) 日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持
10月13日:辰の刻(午前8時)ご入滅、御年61歳
最長老の日昭上人が鐘を打ち鳴らす(「臨滅度時の鐘」)
庭前の桜が時ならず咲く(お会式桜)
10月14日:葬送の儀
10月26日:身延山に埋葬
お会式:日蓮聖人の忌日に修する法会。
会式とは法会の儀式を略していうので、特に日蓮宗に限られたものではないが、現在では日蓮聖人の忌日に行う報恩会の事を指すことになっている。 中世においては「大会(だいえ)」、「御影講(みえいこう)」「御影供(みえいく)」「御命講(おめいこう)」などといわれていた。これらは日蓮聖人の御影(肖像)のまえで開く講会という意味である。
池上宗仲・宗長
日蓮聖人の大檀越。池上氏宛ての手紙は、「兄弟鈔」など20通伝わっている。
〔家族〕
日蓮聖人の書状には、右衛門大夫志宗仲夫妻、弟の兵衛志宗長夫妻と、のちに信仰を改めて日蓮聖人に帰依した父・左衛門大夫康光の五名がみられる。
〔地位〕
池上宗仲・宗長の兄弟は早く聖人に帰依し、武蔵国池上郷(東京都大田区)に住した武士。宗仲は「散位 大中臣 宗仲」(池上本門寺祖師像胎内御遺骨唐金筒銘)とも名乗る地頭で、池上家の所伝によれば、幕府の作事奉行であったという。
〔父との確執〕
兄弟の父左衛門大夫康光は作事奉行として千束(現、東京都大田区)を知行していたようであり、日蓮聖人が批判した極楽寺良観房忍性の熱心な信者であった。一方、宗仲・宗長兄弟は聖人に帰依したため、父と子の間に教説信奉をめぐって対立が生じた。文永12年(1275)春、父康光は兄弟を威圧して改信を迫ったが、兄弟の信仰は強く、応じなかったので兄宗仲を勘当した。 聖人は直ちに書状(『兄弟抄』)を送り、兄弟に法華信仰を貫徹することを教示した。

「一切はをやに随うべきにてこそ候へども、仏になる道は随はぬが孝養の本にて候か。」
「慈父のせめに随いて存外に法華経をすつるよしあるならば、我身地獄に堕つるのみならず、悲母も慈父も大阿鼻地獄に堕ちてともにかなしまん事疑ひなかるべし。」(以上「兄弟鈔」)
「此御文は別してひやうへの志殿へまいらせ候。又太夫志殿の女房・兵衛志殿の女房によくよく申しきかせさせ給うべし。きかせさせ給うべし。」と末尾にあり、「兄弟鈔」はその女房たち宛でもある。

日蓮聖人にとって、親子のつながりよりも法華信仰の受・不受こそが問題であった。世俗的孝養より宗教的孝養こそ真の孝養であるとしたのである。弟宗長も聖人の檀越であったが、父と兄の間にあって、世俗的孝養と信仰の間を動揺した。 聖人は宗長の去就を気遣い、最後まで法華信仰を貫徹することを勧めた。

「百に一、千に一も日蓮が義につかんとをぼさば、親に向ていゐ切り給へ。親なればいかにも順まいらせ候べきが、法華経の御かたきになり給へば、つきまいらせては不孝の身となりぬべく候へば、すてまいらせて兄につき候なり。(中略)すこしもをそるゝ心なかれ。」(「兵衛志殿御返事」)

この父子の対立は数年続き、この間父は宗仲の法華信仰をとがめて二度勘当している。 しかし、兄弟力を合わせて父をいさめ、慰諭に努めたので、父康光はついに勘当を許すばかりでなく、自分もまた法華信仰に入った。
〔日蓮聖人の投宿・入寂〕
日蓮聖人は常陸の湯療養のため身延を出て、弘安5年(1282)9月18日武蔵国池上郷の池上宗仲の邸に着き、翌10月13日、その邸で61年の法華経弘通の生涯を終えた。

10月14日の葬送には、宗仲は幡の奉持者として、宗長は御大刀の奉持者として葬列に加わっている。
〔本門寺建立〕
その後、宗仲はその邸に日朗と協力して一宇を建立、更に聖人の7回忌に当る正応元年(1288)には聖人の坐像を造立して安置した。今の池上本門寺がこれである。

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平成18年12月12日(火) 実台寺信行会(第七十三回)資料
日蓮聖人と主要檀越(その3)
「富木常忍」と法華経寺・中山門流
《参考》4大檀越
@富木五郎常忍         下総  ご遺文40通
A四条左衛門尉頼基       鎌倉  ご遺文40通
B池上太夫志宗仲・兵衛志宗長  武蔵  ご遺文20通
C南条七郎二郎時光       駿河  ご遺文50通

日蓮聖人の信徒の代表として外護のまことを尽くした四人の檀越。この4人はそれぞれの地域の信徒総代でもある。 とりわけ富木氏は、教団全体を統率する重鎮として外護の大任を果した。
富木氏の身分
因幡国富城庄の領主で、下総八幡庄若宮に住していた。下総の守護千葉氏の家臣。
日蓮聖人との関係
重縁の間柄であった。聖人の生家と深い関係があり、聖人は富木氏にいろいろ援護を受けていた、と思われる。両家は、安房と下総とで遠く離れていたが深い縁故に結ばれていた。

【訳文】「以前、ことに苦難の生活を強いられていた時から、あなたには引き続きご供養を受けておりますので、ことさらに重いご恩を感じております。」(【富城殿女房尼御前御書】)

日頂(にっちょう)(六老僧の一人)・日澄(にっちょう)の子息二人を聖人の弟子とする
日蓮聖人への貢献
日蓮聖人は、京都遊学の時、立教開宗後鎌倉を宣教の地と定めた時、龍ノ口法難の後、佐渡流罪の途次・流罪先、……など、重要な人生の転機には真っ先にその知らせを富木氏に送っている。佐渡においての著述「観心本尊抄」は、「此事日蓮当身の大事也」といわれ、日蓮聖人の教義と思想の白眉といわれるが、これも富木殿あてに送られている。

富木氏は、学識もずば抜けていて、聖人の教義の完全な理解者であったから、重要著述は多く富木氏に送られ、富木氏を通じて門下に周知された。

富木氏の信解の深さを示す話として、下総真間の弘法寺(当時、天台宗)の僧二人と論争して勝利し、弘法寺を日蓮宗に改宗させた話がある。この2人の僧は著名な天台宗の学匠であったから、その2人を論伏した事実は富木氏の学識の深さをいかんなく示すものといえる。

このように、富木氏は、筆・墨・用箋などの文具や、衣料品・食料品などの物質的な供養から、門下一同への意志の伝達、まとめ役、教義の学習・伝道の中心的存在、そして、聖人の良き理解者として、夫人と共に一家を挙げて聖人を支え続けた。その貢献度は、抜群であったといえよう。

【訳文】「貴殿が差し向けてくれたこの入道は、貴殿の言い付け通りに、佐渡の国まで同行したいと言うけれども、費用の事もあり、また気の毒でもあって、色々とめんどうなことがあるので帰ってもらいます。貴殿の暖かいお気持ちはいまさら改めて申し述べるまでもありません。」 【寺泊御書】

日蓮聖人滅後
常修院日常と号して出家。(聖人の教えを自ら実践せんとする)
聖人の著述・書簡を保存することに全力を傾注、師の教えが永久に残されるよう努力した。
84歳にて死去。(聖人滅後18年目)
聖教(しょうぎょう)(聖人遺文)の目録を作成、厳重保管を遺言し、門外不出の重宝として「との殿い居の制度」(宿直)を確立した。
邸内の持佛堂を発展させて、中山法華経寺を創建。
後に、中山門流として教勢を全国的に拡大する。

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